自分を客観的に見るって、

言葉で言うほど簡単じゃない。

 

私たちの意識は、いつだって

自分に都合よく考えている。

 

「こうすべき」「こうありたい」

って考えて、勝手に未来をつくろうとする。

 

思考と感覚はちがう。

 

何かを意識するって、

何かを感じること。

 

でも、

どう感じるかは、

 

自我の分別で

勝手に決めている。

 

たとえば――

道ばたで、母親と一緒に

歩いている女の子を見たとき、

 

私の中に、幸せな感覚が

湧き起こっている。

 

それなのに、

可愛い子が私の隣に座ると、

 

私は、それを

あるがままに意識出来ない。

 

意識がどこかに飛んでいる。

 

同じ「見る」という行為なのに、

内側の反応はまったく違う。

 

私の中の本能の働きを

意識が、受け止め切れなくて

 

色々な思考を働かせて

制御できなくなることがある。

 

そのあるがままの命の働きを

あるがままに受け取れると

 

命の本当のニーズに

あるがままに繋がれると思う。

 

自分の中にある「満たされなさ」や

「欲望」を否定するのではなく、

 

ちゃんと見つめることが、

大切なんだなと思う。

 

思考の罠から抜け出すには

思考がグルグルしているときは、

 

「もうひとりの私」が

抵抗しているのかもしれないと思う。

 

そして、その“もう一つのまなざし”を

持てたとき、ちょっとだけ楽になる。

 

自由になるとは、もう一人の

自分と一つになることでもあると思う。

 

それが、「俯瞰する」ということ

 

思考に流されずに、

「今、自分はこう感じてるな」と気づくこと。

 

その気づきが、

苦しんでる自分から

 

それをやさしい受け止めている

もう一人の自分に変えてくれる。

 

自分の中のもう一人の自分

「真我」と出会うと

 

心の奥には、何も判断しない

静かな自分”がいることに気付く。

 

その存在は、

「あるがまま」をただ感じていて、

 

私がどんな状態でも、

そっとそばにいてくれている。

 

苦しいときこそ、

真我が目を覚ます。

 

矛盾するようだけど、

苦しさに気づいたとき、

 

その奥にある静けさにも気づける。

 

「こんなにエゴまみれだ」って思った時、

その気づきがすでに、

 

“エゴの外側”のまなざしなんだと思う。

 

「今ここ」に還る

自分の中の騒がしさに

 

ふっと気づけたとき、

私たちは“今ここ”という

 

奇跡のような瞬間に戻ってこられる。

 

客観的とは――

無我であり、

 

判断のないまなざしで

自分を見つめている状態。

 

それは、ほんの一瞬かもしれないけれど、

その一瞬が、エゴの心を洗い流してくれる。

 

でも、いつもそうでなくていい。

“その一瞬”を大切にできたら、

 

きっと、今より少しだけ、

軽やかに生きられる自分になっている。