行雲流水の雲のように
自我の執着を手放せたら
良いのにと言う思う
ことがある。
そして雲が無い時、
それを空(くう)と言う。
空とは、空っぽの状態のこと。
空(そら)に雲一つない時
心は晴れ晴れとしている。
そして雲一つない空に
太陽は輝いている。
そして、太陽は、
心を温かくする存在とイメージしている。
雲は、太陽を隠す
心を曇らす存在であり、
太陽は、心の源
命の源のような存在とイメージ出来る。
太陽を隠す「雲」は「人心」であり、
「太陽」は「道心」である。と言う。
私の心に執着(思考)が生まれると
私は、そこから抜け出すことが難しい。
私の執着(欲望)が、
道心(あるがままの心)に反している時
私の心は、寂しさとか
悲しさを感じる。
それは、私の体感覚だが、
その私のイメージが
太陽を隠して
そのために私が悲しんでいる。
その私の心の中の反応を
痛みと感じている身体は、
エゴの心と真心の
板挟みになっている。
それは、真心が私の中に働いているのに
それを無視する自我が私の純心を傷つけている。
「太陽」は、私の心を温めて
雲は、悲しむ私、涙する私。
しかし、雲からの雨は
大地を潤す。
私にとって大地とは、
何か?
あるがままの自然の私?
自分が無い時
私は、自然そのもの。
私は、自然であり
全ての自然と調和している。
私が無い時、
私は、存在しない。
その時私は、空である。
私の心も無である。
私心が無い時、
そこには、空っぽの空間が存在する。
その時愛に満ちている。
お釈迦様と悟空との関係に似ている。
空を悟った悟空は、
自我の壁を破ったと思ったが、
お釈迦様の掌の上を
飛び回っていただけだった。
私もまた、悟空と同じである。
私が悟空なら
お釈迦様は、どこにいるのか?
私は、空で雲を起こして
雨を降らす存在だとして、
空は、私の器、身体で
私の太陽、お釈迦様は、魂か?
これは、私のイメージの世界。
私のイメージの中に現れる働きは
私の感覚の中に働いている。
苦しみや喜びの
感情が生まれるのは、
私の中に何か
変化を求める存在がいる?
それが、太陽に反しているエゴに
何かを求めている。
太陽は、無くてはならないが、
時に日影も必要だし、
時に大地を潤す
雨も必要だ。
時に食べ物が必要で
飲み物も必要だ。
時に愛されることも必要で
時に怒ることも必要だ。
時にもがき苦しむことも必要で、
全ては、起こるべくして起きている。
時に迷いも必要で
悩むことも必要なんだと思う。
悩みたくないエゴがいるが、
悩みを作っているのはそのエゴだが、
痛みを感じているのは、
魂のままでありたい空の自分?。
空に雲(利己心)があると
本心(「太陽」)が見えなくなる?
「太陽」が見えないと悲しむこともあるし
時には、雨が欲しいと祈ることもある。
祈りは、雲を取り払い
太陽が現れることを求めるが、
心が必死で自分(雲)を
消そうとしている。
心を浄化させる
行為だと思う。
迷いは、「雲」取り除くために
雷を持った雲を作ってしまって
訳が分からなく
なっている状態か?
「雲」は計らいであり
計らいを止めると空になる。
その苦しみから抜け出すためには
苦しみを捨てることが必要である。
「雲」は、命のニーズ(感情の根拠)に
基づいている。
そして、「雲」は、そのニーズに
気付けば自然と晴れて来る。
人の悩みは「雲」であり
その奥には晴れない命のニーズがある。
今の「感情」は、どんな
ニーズに基づいているのでしょうか?
それに気付けると
「太陽」が差してくれるかもしれない。
