心のバランスは、

どこで誰が取っているのか?

私には、心が乱れる時がある。
私の心を他者が

 

受け止めるていないと

感じる時に不安を感じる。

 

その時、その不安を

消したいと思う時に

 

何とも表現できない感覚が

うろうろしている感じがある。

私は、心の感情を

認めたくない。

 

そして、そこから逃避したい。

それは、感覚ではなく

 

私の思考が、安全な感覚を求めて

不安を排除しようとしている。

 

するとその思いを主である感覚は、

絵も知れないは、

 

どこで誰が取っているのか?

 

私には、心が乱れる時がある。

私の心を他者が

 

受け止めるていないと

感じる時に不安を感じる。

 

その時、その不安を

消したいと思う時に

 

何とも表現できない感覚が

うろうろしている。

 

私は、心の感情を

認めたくない。

 

そして、そこから逃避したい。

それは、感覚ではなく

 

私の思考が、不安な感覚を

排除しようとしている。

 

ぞわっとする感覚、

私が感覚と

 

繋がっていないことで

感覚が持つ孤独感か?

 

私が、何も考えないで居れる時

心(感情)は安定している。

 

心のバランスが崩れるのは、

私の自我の思考が

 

自分を防衛しようとして

自分の主である感情を否定して

 

思考で感情を

押さえつけようとする時

心は、満足しない。

 

心は、私の思ったように

成ってはくれない。

 

私もまた、心の

思うままになってあげていない。

 

心のバランスは、私の思考との

関係にあるようだ。

 

私の考えは、心を

無視することがある。

 

私の執着は、私の心を

無視している。

 

執着とは、心の感覚を縛る行為。

 

執着を手放せば、

心は、解放される。

 

エゴは、現実を無視する。

 

現実を無視して、

現実を受け入れないと

 

現実を受け入れない

現実が現れる?

 

妄想と現実の区別がつかない

世界に迷い込むのかもしれない。

 

エゴがいくら執着しても

その現実は、既に存在していない。

 

現実は刻刻変化している。

 

キサゴータミーの子どもの死を

受け入れられない苦しみは、

 

それを受け入れることで解放される。

 

エゴを満たしても

心の平安を得ることはない。

 

エゴとは、心(あるがまま)を

拒否することでもある。

 

それは、本来の自分を

生きていない。

 

本当の自分とは、

心のままの自分。

 

私の心、私の命は、

何を求めているのだろうか?

 

その答えは、今ここに

姿を現している。

 

私達は、心のままに生きれると

幸せなのに

 

現実を否定して

不幸を作り出している。

 

エゴの思考と心の思いとは違う。

自分の思いが無く

 

心のまま愛を生きれたら

どんなに美しい世界に生きれることだろう。

 

今ここを生きる時

自分がなく居れる。

 

そんな純粋な

感覚で生きたい。

 

思いは、今を生きることが出来ない。

 

今現れて来る感覚を

生きることが、幸せと繋がる。