孤独は、人との関わりの
関係の中で起こる。
孤独は、妄想の中の
私が、現実(今ここの命)との
繋がりが無いために
命自身が、他の命との
触れ合いを感じることが
出来ない寂しさのように思う。
普段の私は、自分の
思い(思考)に縛られている。
その私の思い込みは、
何かの真実を頑なに
認めたくない
抵抗のように感じる。
私が、その思い込み(抵抗)で
感覚を遮断するメリットは、何だろうか?
それによって、私は、
今ここのあるがまま(真実)に
眼を向けなくても良い。
それは、私が、私の命
そのものを拒否する。
本来、自我は、命の感覚に従う。
それが、使命なのに。
私が、エゴによって、
命との繋がりを持たないことで、
私は、現実(真実)から逃避し
妄想と言う非現実に逃避する。
でも意識が真実と向き合うと
孤独と言う
寂しさが湧き起こる。
命とのつながりを
遮断することで
命の感覚を麻痺させることが出来るが、
命は、絶えまなく愛や思いやりを
命の泉から沸き上がらせている。
それと繋がれていない寂しさ。
愛を強要しても愛は、
得られない現実。
愛されていないと感じる人は、
自分の命(愛)に繋がれていない。
誰かに愛されていないと感じている時、
実は、その人を愛することを恐れているのかもしれない。
自分の心を閉ざして愛を求める孤独が
そこに存在するように感じる。
愛を強要しても、
心の自然な愛は、湧き起こらない。
思い込みに逃避したい
過去の現実と向き合う。
人を心から愛しているなら
その人の心をそのまま感じ
れることが喜びのような気がする。
心は、繋がりを感覚で受け止める。
エゴは、命の思いを
自分の思考で歪めてしまう。
我々は、感覚的に
心のままに生きることで心が喜ぶ。
それが自分の喜びだと知る。
でもエゴは、それでは満足しない。
心を閉ざしていると
外の世界の人々の喜びと
感覚的に繋がれないので
ひがみの歪みに囚われてしまう。
たぶん、孤独は、自分が
自分の命を愛していない時に
命が感じる感覚だと思う。
私の存在が、意味が無いように感じる時、
命と繋がれていないエゴは、
本来は、命の僕であることを忘れている。
傲慢な意識は、命を苦しめる。
自然は、従順な命の僕が作り出している。
今の自然破壊が、
命を破壊していることに
人は気付いているのに
鈍感でいようとしている。
祖の鈍感さが、
人間の孤独をく噛めているように感じる。
