心は、自ずと

バランスを取っている。

 

それを自分が受け入れることが

できるか出来ないか?

 

心には、葛藤はないけど、

自我の意識が心と葛藤している。

 

意識的にバランスしようとすると

心と意識が不自然になる。

 

心は、自然そのものである。

その自然をただ受け入れるだけ。

 

心は、あるがままに存在し、

利己的濁りが意識に残る。

 

それ以外は、無意識に

心が選別をしている。

 

利己的意識が

心の平安を乱している。

 

仏教が、無我無心を求めるのは、

命の自然が安らぎと知っているからだろうか。

 

求めることが苦しみであって、

それが心(命)の自然に反している。

 

求める自分が無くなると

心に平安が訪れる。

 

仏教の悟りは、自我の

役割に気付くことなのだろうか?。

 

自我の苦しみの元には、

大切な命のニーズが隠れている。

 

どちらにしても悟る(気づく)ことで

意識に変化が起こる。

 

意識が変化すると

行動に変化が起きる。

 

少なくとも我々が、

自分のエゴに気付けると

 

意識は、そこから

自由になる選択が可能である。

 

自分が自分を

捨てることは難しい。

 

でも自分の意識が、

その奥に命の大事なニーズに

 

気づくことが出来たら、

私達のエゴの囚われなんて

 

そんなちっぽけな悩みに

執着する自分を

 

どうでも良いと感じる

自分が生まれる可能性は大きい。

 

他人の苦しみの

同じ矛盾に気付けると、

 

相手の悩みも

受け止めることができる。

 

自我は、自分を客観化できない。

気付きは、無我の自分から起こる。

 

無分別の分別も無知の知も

同じような意味を持つと思う。

 

我々は、感覚に於いて

真実を知る。

 

利己心(自我)は、

迷いの元である。

 

私は、自分がどう

感じているかは分かるが、

 

それが、利己的思考で

出来上がっている場合

 

あるがままの感覚(命のニーズ)が、

何であるかは分別しにくい。

 

私たちは、自分の感覚を

操作できると思っているが、

 

命の感覚を操作してしまうと

真実が見えなくなる。

 

相手の真実と出会うためには、

自分の真実

 

(あるがままの自然な感覚)と

繋がっていることが必要である。

 

全ての命(自然)は、

お互いをバランスする。

 

不自然を気付く意識は

不自然を解消する。

 

不自然とは、命の感覚と

違う意識が芽生えていることである。

 

全ての働き、

エゴも含めて

 

必要なものは、全て

与えられている。

 

母は、特に母性は、

自己を犠牲にして子供を守ろうとする。

 

その命の働きに

我々の本心を見る。

 

全ての命が、純粋で

美しいものに感じられる。

 

私の命が今何を

求めているかに気付けると

 

私の思考も行動も

俯瞰的な視点から

 

命の思いを感じ取りながら

ベターな選択を

 

冷静に見極めて

思いのままに後悔しない

 

生き方を選んで

生きることができるだろうと思う。