今ここの感覚に

意識を向けると

 

思考の迷路から

今ここの自分に戻ることが出来る。

 

意識がこの感覚と

繋がることの大切さを思う。

 

意識の持ち方の変化が、

苦しみから脱出とも関係がある。

 

思考が感覚を閉じ込めている。

そのことに如何に気付けるか?

 

思考は、意識の気付きに

反応して解決策を模索する。

 

思考と現実は、

繋がっていない。

 

思考は、妄想で

解決案を模索するが、

 

それは、利己的な解決案で有って

真の安らぎにはならない。

 

私の場合、思考は、

現実逃避でしかない。

 

おそらく全ての問題は、

最初から存在しない。

 

結果としての事実が存在する。

それをどう受け止めるかで苦しむ。

 

選択は、どう

受け止めるかである。

 

どうして人は、ありのままに

受け止めるこが難しいのだろうか?

 

何を誤魔化したいのか?

 

そこにある自我の意識は、

真実ではない何かに依存する。

 

それは、現実の感覚を

麻痺させるために必要とする。

 

ギャンブルや酒への依存。

 

その自分が逃避したい感覚は、

聖なる魂の感覚(ディバイン)である。

 

そのディバイン(私の聖なる存在)に

向き合うこと無しに

 

全てを受け入れることは出来ない。

 

また、それなしには、

生きることさえ意味を持たない。

 

その存在を私は、

無視して生きてきた。

 

私の生き方の間違いは、

否定(ディバインの声を聴かないこと)から始まっている。

 

私は、現実(ディバインの感覚)を

受け入れられなかった。

 

他人の評価に傷つく私は、

他人を否定できない。

 

その否定は、あるがままの

私のディバインを否定する。

 

それは、子が、

親を否定すること。

 

私の父は、今年亡くなったが、

私は、死ぬまで彼と和解することはなかった。

 

その思考の前提に、

真実(ディバインのニーズ)が隠れている。

 

普段、我々は、ディバインの

ままに生きている。

 

その感覚を自分だと思っている。

その時、人は、悩むことも無い。

 

人は、ディバインに繋がっている時

喜びや安らぎと共にいる。

 

でも迷いの中にいる時

その根にあるニーズ

 

(命のディバインの願い)が

余所に置かれている。

 

多くの悩みは、

真実への対抗として起こる。

 

その真実(あるがまま)は、

今ここ、この一瞬に生きる

 

ディバイン(命の声)に

寄り添えていない。

 

どうして、私は、

命の真実を否定し

 

苦しみを選択するのだろうか?

 

そちら(痛みを感じない)方が、

まだ生きれると感じる。

 

私の犠牲に私の人生を捧げた。

それを改めたい気持ちになっている。

 

今も私のディバインは、

純粋に生き続けている。

 

私は、それに素直に

生きることだと思っている。