私の言葉は、
私を飾ろうとする。
その心が、嘘か本当か
分別する意味がない。
分別する時にある思いで
どちらにもなる。
それは、つまらないこと。
本当に大事なものは、
自分の中の聖なる感覚を
自分が生きているかだと思う。
思考は、損得の
欲の世界に迷い込む。
意識が、囚われる時は、
思考の壁に閉ざされている。
嘘もホントも
見分けがつかない。
真実の世界は、
今ここに息づいている
自分の内なる
聖なる存在の感覚に存在する。
今ここのあるがままの感覚に気付く時、
今には、迷いがない。
私は、私の感覚を信頼する。
私の思い、妄想は、
その聖なる存在(ディバイン)を
見失っている。
我々は、そのディバインを
感じ取って
生き続けている。
そのディバインは、生命の誕生以来
我々の命を繋いでいる。
私が、人生で
求めて来たものは、
そのディバインを
歪んだ形で捉えてしまった。
そのためにディバインを
苦しめて来た。
それは、私自身でもあり
他の命でもある。
今の私は、過去の
色々な思いから離れたがっている。
私が、私のディバインに
気付くことで
私の安らぎが
何であるかも理解する。
現実をあるがままに
見れない私の中にも
それを知らせてくれる
真実が存在する。
ありのままが真実であると言う意味の中には、
何が存在するのだろうか?
その真実を感じることを妨げるは、
利己的満足とディバインの喜びとの
質の違いに気付けていない。
あるがままの現実に
ある安らぎ。
夢を妄想する利己的思考は、
真実をあるがままに
受け止めたくない
歪んだ未満足のニーズがある。
人の思いにある苦しみは、
ただ思いを拒めない苦しみだろうか?
選択もまた、思いがあると
苦しみである。
思いの無いあるがままの
ディバインの選択に気付く。
あるがままの選択は、
思いの選択では無い。
我々が、何を求めるかは、
心が決めている。
それを自我が選択する時に
結果に自我を縛ろうとする。
孔子が天命に
耳順うようになったのも、
この心の中のディバイン、
彼の言う法(のり)への気付きだと思う。
その法に反する時に
苦しみを生む。
耳が従えば、
そこには、苦しみは無い。
それは、分かっても
自我は、それを認めたくない。
孔子でさえも
70にして法を超えずと言う。
嘘をどんなに素晴らしく見せても
自分の心は、騙せない。
私の戸惑いは、エゴも法も
どちらも捨てがたい。
自分が生きるのに必要な
ニーズを無分別の世界で
分別出来ていない。
命のニーズが、その
根源にある。
私の本当のニーズ(魂が私に伝えたいもの)に
私は、勝てない。
心が空っぽの時、
ニーズは、満たされている。
私の心に分別がある時、
私の心は疲れる。
その疲れる心の裏に
満たされないニーズが隠れている。
命の意図は、そのニーズに
隠れている。
それを自分のニーズとして
生きることで命の喜びを知る。
その心の声に向き合うと
心のぬくもりを感じる。
私の苦しみは、私のディバインを
無視する心が創り出している。
私の感覚は、ディバインの
ニーズを捉えている。
私の苦しみは、その意図に
反することで起きている。
それでも私は、
真実を生きる気持ちが起きてこない。
自分を生かすとは、
どう言う事だろうか?
自分を殺す時に
生きる自分がいる。
私のエゴの自分も
聖なる感覚の自分も
同じ自分で聴く側と
伝える側の両側面である。
ありたい自分と
その声を聴く自分と
両者の対話で
自分は成り立っている。
その対話が出来ない時に
異常をきたすように感じる。
私は、自分の純粋な心を
生きたいと思う。
その自分を生きれることが
本当の自分の喜びだと思う。
命からの声を感じ取れない時、
自分への批判を誤魔化す。
生きるとは、今ここに
息づいている感覚に誠実であること。
その瞬間に生きては、消えていく
命の声を大切にして生きて見たい。
私が、このディバインと繋がることが
私の命が私に求めていること。
その命の声と共に
私の命は終わる。
その命を大切にして
命を全うしたい。
