信頼には、自我の

意識の壁が無い?

 

信頼が出来ない時には、

疑いの心が起こっている。

 

その疑いには、魂の扉を

開けない苦しみがあるのだろうか?

 

疑いは、ベールの存在を感じるが、

そこには、その人の大切なものを

 

守りたい願いがあるのだと思う。

その守りたいものを

 

意識しない関係が信頼で有って

そこには空っぽの空間を存在する。

 

キェルケゴールは、信仰は、

聖なる領域の前にただ独りで立ち、

 

聖なる領域へと

身をゆだねる行為だと言う。

 

聖なる領域は、私には

魂の存在している空間で

 

その魂の感覚を信頼する。

私には、嘆きがある。

 

魂の癒されない記憶がある。

でもその扉は閉ざされている。

 

その領域の中に

自我(エゴ)意識は入ることが出来ない。

 

その命の泉から

純粋な感覚が湧き起こる。

 

その純粋さが意識に沸き起こる時

自我の濁りが意識される。

 

宗教は、自我の壁を破り

聖なる領域と繋がる一つの方法だと思う。

 

自我の消滅には、絶望とか

意識に置ける死の体験が必要なように感じる。

 

信仰は、内に「信」が

有って初めて成り立つ。

 

その信とは、自我意識が

内なる命の感覚と繋がって

 

その魂の感覚を

感じ取っていることだと思う。

 

その意識が自我の壁を超えるには、

あるがままの自分(無我)になること。

 

信仰とは、その魂の声と

繋がることだと思う。

 

今を生きることも

意識が今の心に気付き、

 

それを生きることで

命の感覚と繋がることである。

 

「不合理なゆえに我信ず」

と言う言葉がる。

 

不合理ではあるが、

感覚が信じていることがある。

 

それ故、不合理であるがゆえに

信じる感覚の大切さを思う。

 

心が安らぐのも

そこに活き活きとした感覚が存在する。

 

その心を信頼して

我々は生きるしかない。

 

合理的に納得できるものしか

信じない心は頑なである。

 

ソクラテスの神、デーモンは、

彼の魂からの声である。

 

 

仏陀も心の奥底に

沸き起こる存在を

 

如来として捉えて

その働きと向き合あっている。

 

しかし、頭で如来を理解しようとしても

意識は、それを捉えることは出来ない。