鎌田茂雄は、禅の心、

仏の極意で次のように言う。

 

『とどまらぬ心は、色にも

香りにも移らぬものである。

 

この移らぬ心の本体を神と言い、

仏と言い、禅心とも極意とも言う。

 

考えてから言ったのであれば、

どんな立派な文句でも、それは迷いにほかならない。

 

たとえば、「右衛門」と呼びかけると同時に

「あっ」と答えるのを不動智と言う。

 

「右衛門」と呼びかけられて、

何の用だろうかと考えてから

 

「何の用だろう」などというのは、

心に迷いがあるからである。

 

「右衛門」と呼ばれて、

「おっ」と答えるのが諸仏智なのである。

 

仏と衆生とは二つのものではなく、

神と人間もまた別のものではない。

 

このような心になることを、

神とも仏とも言うのである。』

 

彼の言葉の説明では、

分かったようで分からない。

 

心移りしない心が仏だろうか?

私の心は、迷う。

 

その仏と私が、同じものだと言う。

 

私の意識(心)は、自然に沸き起こる

感覚(仏)を利己的に分別しようとする。

 

その分ける心が迷いである。

分けないままが無分別心である。

 

移らぬ(無執着)心の本体(仏)を

大海に例えれば、

 

波又は、一滴の水が

迷いの凡夫の私になる。

 

迷いの心が苦しみを生む。

その心が消えると仏の心になる。

 

凡夫は、仏を求めるが

その裏には我執がある。

 

仏とは、その心を

捨てた心である。

 

我執を捨てると

利己的心が消える。

 

それでは、自分が

無くなる寂しさを感じる。

 

自分の心を二つ(主体と客体)に

分けると迷いが生まれる。

 

意識自身が、感覚(欲望)を

叶えようとする働きがある。

 

その欲望を自我意識は、

自分に良いと思い込んで

 

必死に我(が)を生きて

他人とぶつかる。

 

仏心(無分別心)は、

人に安らぎを与える。

 

無心になれば、

心は、全てと調和する。

 

その時、自分が

仏だとは気付かない(分からない)。

 

仏の心には、

自我の働き(波)がない。

 

純粋になりたいと思う心に

含まれる不純物(波)は、自分と言う意識である。

 

意識的にそれを消そうとしても

自分の意識(主体)を消すことは出来ない。

 

自分の意識で自分を苦しめる。

 

そして、意識は、自分(客体)を殺せば、

苦しみから逃げられると思う。

 

意識は、妄想の世界で

生身の自分を客体化するが、

 

現実は、生身の自分を

活かすために意識が働いている。

 

本末転倒の自己矛盾を

解消するには、自分の

 

意識の働きを客観的に

見る眼(心)が必要だと思う。

 

妄想には、真実は無く、

仏(あるがまま)に真実がある。

 

我執が働かない世界は、

甘美に感じられるように思える。