あるがままを

生きることは難しい。

 

どおしても自分の

思いが出てしまう。

 

自分の思いに

縛られる自分がいる。

 

今の私には、美も

エゴの錯覚のように感じる。

 

美脚とは何だろう?

 

今の私には、何の

魅力も感じない。

 

細い脚は、

欲情をそそるのか?

 

今の私は、不自然を

感じてしまって

美しいとは感じない。

 

あばたもえくぼに

見える感覚は何だろう?

 

私は、この錯覚は、

命の大切な働きのように感じる。

 

親は、自分の子が

可愛く感じるように出来ている。

 

子を身ごもると

母性が強くなる。

 

命の働きの奥深さに

驚かされる。

 

普段、私は、エゴ(利己心)を

悪く捉えられがちだが、

 

それには、それなりの

存在意味があるのだろう。

 

私は、利己心に

苦しむことが多い。

 

祈りや瞑想は、その執着を

取ってくれる。

 

私は、ある人を

好きになると

 

その人を良く見ようと

している自分に気付く。

 

全て、心の働きを

俯瞰してみると

 

全ては、意味を

持っていると知る。

 

錯覚は、恐ろしいことだが

その錯覚が存在しているから

 

人類が存在していける

面もあるのだと思う。

 

自分を悪く思うと

人からも良く思われない。

 

しかし、私には、

その分気が楽である。

 

人間は、錯覚しないと

恋に落ちないのかもしれない。

 

思考的な良い悪いの判断は、

現実的には意味がない。

 

人は直感で好き嫌いを

決めていると思う。

 

その感覚は、

思考ではなく

 

命の働きとして

未来を見据えた

判断が成されている。

 

我々があるがままを愛するのは、

そこに命の自然を感じるからだろう。

 

命の自然とは、

安らぎに違いない。

 

あるがままには、

利己的思いはない。

 

あるがままには、

自分が無い。

 

感覚は、自分を感じるが、

それを自分と感じるのは誤りであろう。

 

その感覚には、

自分はない。

 

人は恋に落ち るが

それは、その人が

仕向けている訳ではない。

 

もし、その人が仕向けると

それは、嘘になる。

 

私の思いに

エゴ(利己心)がないと

 

心は純粋に清々しい。

 

無我になれたら

それを手に入れなれるのであろう。

 

思考を止めて

感覚を感じることで

 

我々は、自分の意識を離れ

真理に包まれる。

 

非思考の中に

私は、心のやすらぎを感じる。