純粋さの感覚は、

私の心が感じている。

 

その感覚を、

私自身は、操作できない。

 

感覚を純粋と感じる心には、

エゴの思考が無いのだと思う。

 

誠と言う言葉は、

言葉が成ると書くが、

 

感覚のままに

言葉や行動が

 

あるかどうかを

心は感じているように思う。

 

意識は、自我の

利己的思考で現れる。

 

心から湧き起こる感覚は

純粋で利己心は無い。

 

その純粋さは、

利己心の混じりのない

 

意識として

私には感じられる。

 

この私の受け止め(思考)は、

私の心との対話である。

 

私は、私が汚してきた

感覚への後悔は、

心の痛みだと感じる。

 

心の痛みは、私を

本心に向かわせる。

 

でもその反省は、

その時だけの思いでしかない。

 

私は、それを

追い求めることは無い。

 

私の中の純粋なものが

いつも私に叫んでいるのを感じる。

 

私達が、純粋でないと

感じる時、

 

私の思いは、

その心に反している。

 

そこには、私の

利己的歪みがある。

 

私は、自分の思いの

醜さを知っている。

 

その醜さは、自分の傷を

誤魔化そうとしている気がする。

 

その誤魔化そうとする意識が

心からの叫びを強くする。

 

愛情や喜びの感覚も

その心の純粋さの表現のような気がする。

 

私の心の奥には、純粋な魂

(ソクラテスの言うデイモンの声)が存在する。

 

その感覚(魂からの声)に向き合う。

 

その感覚は、天の道、

それを誠にするは人の道なり。

 

私の感覚は、この魂の純粋さに

心が清まるのを感じる。

 

細川ガラシャの辞世の句

 

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 

花も花なれ 人も人なれ」

 

散りぬべき時も

我々は、心の声として感じ取る。

 

純粋に生きるとは、

この感覚に従うことだと思う。