自由は、選択に

障りが無い時に感じる。

 

その意思を束縛するものは、

何だろうか?

 

私が、感覚を捉える時に

不自由に感じるものがあるとしたら、

 

今ここの現実に対して

自我の思い込みがどこまであるかだろうか?

 

自我の思いが無ければ、

縛れることもない。

 

私の意識が何かに執着する時に

私は、不自由を感じる。

 

誰も私から意思の自由を

奪うことは出来ないのに

 

不自由に感じてしまう時

その意思は、命の感覚の中に存在していると思える。

 

私が、妄想を持つとき不自由を感じるが、

感覚のままに居る時不自由を感じない。

 

悩みは、選択が、

感覚に反している時に起こる。

 

不自由な感覚は、

選択が命からの思いに反している時に感じる。

 

選択した現実は、確定する。

だが、それを認められなくて人は苦しむ。

 

自由とは、今この一瞬の選択に

命が我々に求めている選択をした時、

 

命と自我との間に

障りが無い。自分の意思が無いこと。

 

今ここの感覚のままに

する選択は、自由である。

 

妄想は、未来を想定するが、

それは、今ここの思考の中にしか存在しない。

 

人生は、今ここの

選択の連続である。

 

その時に命からの感覚を

選択をする時に

 

命の感覚は、喜びになるが、

 

その時に自我の思いが命の感覚と

一致していない時に苦しみが生まれる。

 

思考が命の感覚に基づいて選択しない時、

命との繋がりは遮断されている。

 

我々は、現実の今の自分の感覚と

命のニーズの両方とを満たさないといけない。

 

我々が自由を求める時、思考は、

死んだ過去を変えようとするが、

 

変えることが出来るのは、

今ここの現実だけである。

 

そこに自由がある。

 

気付きを生きる時、

自我意識は、感覚と繋がっている。

 

自由とは、意識が、

命の感覚と繋がっているとも言える。

 

この今ここのこの一瞬に存在する感覚を

生きようとすることが自由である。

 

思考は、現実の感覚を無視している。

でも自我意識は、それに気付かない。

 

気付きは、意識が

感覚と繋がることである。

 

自由とは、今ここの自我の選択の中に

命が、自ずからに由ることである。

 

命のニーズを選択している時に

感覚は、自由を感じる。

 

自我の意識(思考)が働いていると

命の自ずからに由り沸き起こる思いを選択できない。

 

自我は、過去から今を選択するが、

命は、今ここの感覚の選択を求める。

 

自由とは、命が感じている。

そして、それは命が自ずからに由って沸き起こる

エネルギーを意識が捉えて

 

それを解放することで

得られる感覚のように感じる。