何のために生まれてきたか?を知れば迷うことはない(240624) | ネオ仏法(別館)

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私たちが日常生活の中で時折、虚しくなってしまったり、実存的な不安を感じてしまうのは、「そもそも、何で、何のために生まれてきたのか?」を知らないことが原因だったりします。

 

実存哲学などでよく言われるように、「自分の預かり知らぬところで、人生に投げ出されてしまった(生まれてきた)」という解釈をとると、どうしても不条理を感じてしまうのですね。

 

そこで今回は、「何のために生まれてきたのか?」についてお話ししたいと思います。

 

実はこのテーマは本サイトでもピックアップ記事として取り上げているのですが、「まだ読んでない」あるいは「長すぎて読めなかった」という方のために簡略版でお伝えしたいと思います。

 

結論的には、冒頭で取り上げた実存主義の考え方(「人生に投げ出された」)はスピリチュアル的観点から言うと間違っております。

 

私たちは明確な意味と目的をもって「主体的に」この世に生まれてきたのです。

 

それでは、なぜわざわざこの世に生まれないと目的を達成できないのか?をご説明します。

 

これはスピリチュアルでよく言う「波動」と関係しているのです。

 

私たちは思わず知らず、自分自身の心の状態に応じた波動を発しているのですね。

 

実はあの世というのは、波動が似通ったもの同士が惹かれあってひとつの世界をかたち作っているのです。

 

怒りの波動が心の平均値になっている魂は、同じような人たちと一緒に「怒りの世界」に住んでいるのです。

 

これがいわゆる「地獄」です。

 

そうすると、怒っているもの同士がいがみあう世界が展開されていることになりますので、それはかなり辛い世界ですよね。

 

一方で、心の平均値が優しさであるような魂は、同じような人たちと一緒に「優しさの世界」に住んでおります。

 

これがいわゆる「天国」です。

 

優しい人同士が集まっているので、これはとても心地よい、住み良い世界であることが想像できますよね。

 

ところが、あの世というのは繰り返しますが、「似たもの同士が集まっている世界」ですので、ある意味、天国でも地獄でも居やすい場所であることは確かです。

 

それはそうなのですが、一方では「似たもの同士ばかりが集まっているとなかなか進歩しづらいし、新しい刺激がない。だんだんと飽きてくる」ということになるのです。

 

これも何となく想像がつきますよね。

 

そこで、時折、波動の違う魂同士でも一緒に居ることができる(居ざるを得な、とも言う)地上世界に生まれてくるわけです。

 

地上では肉体という一瞬のプロテクターを装着していますので、波動の違う人でも一緒に居ることができるのです。

 

波動が違う人同士が一緒にいると、それが立派な人であれ、「なんだか落ち着かない、居づらいな」と思ってしまうのですが、学びはありますよね。

 

また、趣味や趣向の地が人とでも出会うことができますので、自分の関心領域を広げるチャンスにもなるわけです。

 

こういう学び、霊性進化のために地上に肉体を持って生まれてきているのです。

 

これで「何のために生まれてくるのか?」という「人生の意味」が明確になりましたよね。

 

それでも、やはり、居づらい人と一緒に居たりすると疲れてしまうことはあります。

 

そこで、時折、一人になる時間をとったり、人によっては瞑想などで、本来の自分を回復する時間をとるのです。

 

でも、それでも本当に疲れてしまったら、「この辛い世の中に居るのはあと数年、数十年の我慢なんだな。肉体の死を迎えたら、また天国という故郷へ還ることができる」というのを楽しみにして、心の励みにしましょう。

 

もちろん天国領域に還るには、心の調律をして「優しい人」である/あり続けることが前提なのですけどね。

 

そういう意味で、自分自身のために「優しい人」でなければならないのです。そうでないと損してしまう(地獄領域へ行ってしまう)からです。

 

さて、これで「何のために生まれてくるか?」が明確になったと思います。

 

これ以外に、あの世はじつは階層世界になっているとか、いろいろな話があるのですが、「それも知りたい」というかたは上述の記事を読んでみてくださいね。