PCや携帯の見すぎで目がやられてしまっているあそうです。
ブログもぼちぼちペースで書いていきます
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先日、個人的には”異”能楽師と呼びたい、安田登さんのお話しを伺いました。
「異」をつけた理由はその多才ぶり。
ご自身で書かれた本にその守備範囲の広さがうかがえます。
専門の能はもちろん、「ロルフィング(ボディワークの一種)」から「論語」、そして「3D CGソフトマニュアル」まで!
もともと「漢字」がご専門ということなのですが、この日はその漢字の研究から、「論語」と「能」についてお話しをしていただきました。
なぜ「論語」や「能」は、何千年、何百年もの間、幾度もの危機的状況を乗り越え、今も廃れることがなかったのか?そこには共通の概念があるというのです。
それが「今までの自分を捨てる」ことの重要性です。
「論語」を孔子の言葉を後代に記録したもので、当然ながら文字も当時のそれとは違った形で受け継がれています。安田さんはそれを孔子の時代の文字にすると、どう表現されるか研究されているのだとか。
そうしてみると、孔子の時代にはなかった文字が使われている例が多々見つかるとのこと。
「論語」のもっとも有名な言葉の一つである「不惑(人は四十にして惑わず)」の「惑」 もその一つ。孔子の生きた2500年前には見られない文字なので、どこかで発音と形が似た文字に置き換えられた可能性が高いそうです。
では、もともとはどんな文字だったのか?
安田さんは「或」ではなかったかと推察されています。
で、この「或」という文字、「囲う」とか「敷居を作る」という意味。
つまり、孔子がいいたかったのは「まどわず」ではなく「敷居を作るな」ということではなかったか。
「人は四十にして、敷居を作ってはいけない」
つまり、人は四十歳にもなるとこれまでの経験や知識で凝り固まり、つい新しいものや異質なものを受け入れることを拒否しがちになる。それではいけない。自分の心に囲いを作らず、常に新しいものを受け入れなさい。
・・・それが孔子のいいたいことであったというのが安田さんの解釈です。
さらに、能の大成者である世阿弥の言葉である「初心、忘るなかれ」も同じようなことを言っているのだとか。
「初」というのは、衣と刀で切る意味で、普通は産着などを仕立てることを意味するといわれています。
安田さんは、これを「今まで見につけていたものを、刀で切る」と解釈され、世阿弥は「物事が身についた頃(四十歳ごろ)に、あえてそれを自ら切って捨てるべきである」と伝えたのであると説明されました。
確かに、社会に出て二十年を過ぎると、自分なりのやり方もでき、それなりにうまく仕事も家庭も軌道にのってきます。一方で、自分の社会での行く末もなんとなく見えてきて、不安を覚えたりもします。
そのときに、今までの自分を捨てらる覚悟ができるか?
それがその後の人生を左右するのかもしれません。
孔子や世阿弥の時代は、今より平均寿命も短かった時代。
それを思うと、四十歳前後で今までのものを捨て新しいものを受け入れるということの重さを強く感じます。
まさに四十代の私。
はたして自分は今まで得たものを捨てられるのだろうか?
そんな問いを突きつけられたように感じました。