第二章(家康関東へ)
○前北条領を徳川流に統治する為、徳川幹部家臣は大忙し、関東総奉行に本多正信、青山播磨守忠成、内藤清成、農政は伊奈備前守忠次となる。
家康は伊奈忠次一門に命じ利根川改修工事を行い渡良瀬川と合流させ今の川道を作り江戸の水害を減らした、これにより江戸は新田も容易となり、河川舟運も発展した、家康の治水対策においては旧武田家臣の貢献が有ったのではないかと推察します、今の東京の基礎ができた家康の功績は大である。
天正18年7月(1590年)小田原落城とともに小金井城の高崎氏が滅亡すると家康は12月武田信吉を小金井に封地3万石を与え配置した、信吉は母(お都摩の方)と共に入封した時は7歳である、当然梅雪重臣、伊賀守始め旧武田家臣も多数同道した事だろう。
家康は当初信吉に武田の名跡を継がせて梅雪との約束を果たそうとしていたと思います。
○著者家直系祖先(現13代目)朝比奈七郎衛門泰元は駿州今川家譜代で在ったが今川崩壊後、徳川に仕え駿府にて家康より武田信吉の傳役(後見)をおうせつかる。泰元25才。
又梅雪は山城国で一揆に襲われ殺されとのではなく家康がどさくさに紛れて暗殺したとの説もある。
○天正19年10月お都摩は25才で没し、いったん本土寺南方の参道西側に葬られたが、後に光圀が墓地が荒れているのを知り貞享元年今の本土寺本堂脇に移し、お都摩(秋山夫人)碑が光圀により建立されている。
○前出の勝浦城主正木頼忠の息女(後の家康側室お万の方)について、天正18年城炎燃のさなか脱出のため40mの高さの断崖から白い布を垂らし海上に待機する小船に下りる為、母は弟を背負い先に降り、当時14才の姫が後から布につかまりおりて無事舟に着く事が出来た、姫としてはどんなに恐かっただろう、大変な冒険である。
その後伊豆河津港を目指し航行、着港後河津城主蔭山氏広と面談、母は氏広と再婚する。
城の近くに川津舘が有り舘当主関係者、河津城の人々と共に気候温暖な当地で18才頃まで4年弱の間、青春時代を楽しく過ごした事でしよう。姫は伊豆一番の美人との評判で聡明で日蓮を信講し慈し深い方と言われていた。
諸説いろいろある。家康とは伝承では三島宿での接待役を命じられ、まれに見る美形であり家康の目にとまり側室となる。伏見に於いて2児の男子を生み兄が頼宣、弟は水戸初代藩主頼房である。頼房水戸藩主時、水戸藩に川津権兵衛、蔭山某守なる藩士が着任している、お万の方の子に対する思いと思われる、両名は伊豆時代お万の方の信頼が厚くわが子頼房に仕えさせたと思いす。
○一方信吉は文禄元年(1593年)3月下総佐倉6万石に移封となる。城主として11年間在城する。
○秀吉(1597年)慶長の役、朝鮮出兵、その後慶長3年(1598年)5月病床に倒れる、8月18日死去、62才。
○関ヶ原の戦い
慶長5年武田信吉、関ヶ原の戦いで江戸城西ノ丸において留守居役を勤める。9月関ヶ原の戦い石田三成敗れる
常陸の国領主佐竹義宣(54万石)は家康の関ヶ原参戦の要請が有ったが石田三成との親交も有り出陣しなかった。隠居義重は豊臣よりで、義宣は徳川よりと言われていた。
関ヶ原戦、豊臣方敗戦となり、佐竹義宣急遽伏見滞在の家康に戦勝挨拶に参代する。佐竹の移封は1年後となる。
これは上杉家の処理と言われ上杉130万石を米沢30万石にふうじ込めた後に、佐竹の処分を決定したと推察します、これらに失敗すると上杉、佐竹、伊達と連合すると徳川において北方の脅威と成りかねないと思はれのではないか、慶長7年(1602年)3月義宣、大阪城で謁見、その直後同年5月国替を命じられる。
5月17日移封先は常陸水戸54万石から出羽秋田20万石に減移封となる。
義宣一行は本領常陸の国には帰参せず北陸道を通り直接秋田に向う、そしてこれ迄の様に譜代の家臣にも扶持を与える事も出来ない為、100石又50石取り以下の給人に付いては移封先に連れていけない事になる。
そして約半数の臣下、給人が残った、彼らには何がしかの金子を渡し各自、農民、他にの仕官、商売する等促がしたと思われる。
この時点で前佐竹領地の治安の悪化が謙虚になり所々で強盗殺人、山賊等が出現し領民は恐怖の毎日を過ごす様になる。(次は水戸創成、武田信吉につづく)