水戸城初代城主 武田信吉 再興成らず

(徳川水戸領創成期の基礎は旧武田家臣団の貢献度が大である)

著者自身の思いこみと想象力を生かし小説的な所も入れ、下記の通り記じつしてみます。

 

 第一章 戦国後半武田信玄死後。 

 第二章 家康関東へ。 

 第三章 武田信吉水戸へ (編集中)。 

 第四章 水戸初代藩主頼房 (編集中)。 

 第五章 光圀誕生の謎 (編集中)。

 

第一章(戦国後半武田信玄死後)

武田家は信玄の死後急坂をころげ落ちるがごとき、不運が続き戦国最強と言われた武田軍団引きいる武田家も崩壊した。

応仁の乱以後の戦国時代の著書は多く出ておりますので省略します。

武田崩壊を角度を変えて自分なりに推察してみます。

元亀3年武田信玄は徳川領三方ヶ原に進行し戦勝したが病死し、後継に側室諏訪御料人の男子勝頼を当主とした勝頼は父信玄の時代の重臣達のてまえ当主としての威厳をもつ事は容易ではない、無理をする所もある、(二代目社長の宿命かも)勝頼も努力し天神城、志村城を落とし信玄時代より領土を拡大している。

天正3年5月長篠城、設楽原の戦いが勃発する、長篠城は地理的に武田、徳川両方にとって重要な地点である。徳川方はなんとしても守りたい。織田信長、家康連合軍、それに朝比奈泰勝率いる小田原北条軍が応援にかけっけた。部隊は鉄砲3千丁、兵3万5千を要して設楽原、連子川西方に陣を敷いた武田重臣(武田四天王等)の多くは勝頼に、当方兵1万5千では一担退却すべしと進言するが一部の臣が武田の面通にかけて、しと泡ふかせるべきと、けしかける者も居た、勝頼はここで見栄をはって進撃したのが不運の始まりである。
この戦いで連子川中央の激戦地に陣を敷いた、徳川軍の中に前出の泰勝が武田四天王の一人内藤修理亮昌豊の首級を取り信長、家康を感服させた。家康「たっての願いとして」北条氏政に泰勝を徳川に仕えさせたいと承諾をえる。泰勝1500石を得て徳川に奉仕し、多くの武功をたて後に徳川頼宣に仕え3000石を賜り紀州藩城代家老となる。
武田軍団は半数の将を失い敗走する。

この戦いは朝比奈一門が今川領遠海、掛川城主朝比奈備中守系の泰勝と今川義元が桶狭間で戦死した後、武田方が駿河攻略の為、今川重臣筆頭朝比奈駿河守初め多くの将を武田方に寝が入りさせた、、この戦いは朝比奈一門同士の戦いでもある。
家康は永禄11年掛川城攻略で苦慮していたが元亀元年城主朝比奈備中守、今川氏真との間で和睦を成立させた、城主備中守、氏真一行は氏真の妻の実家である小田原北条に入る。
この中に泰勝と兄泰雄がいる、泰勝は北条の武士の束(武将)となり、兄泰雄はにな山城城代なっている、後に泰雄は徳川頼房に仕え3000石を賜り水戸藩城代家老となった。
信長は武田壊滅を目指し中央道を甲斐に向い進軍する。

家康は東海道を、駿河を奪還し、富士川沿いを武田領に突入する、家康は戦国の常套手段として寝が入りを誘い武田家、親戚筆頭重臣の穴山梅雪を初め多くの武将を徳川方に引き入れた。

梅雪の正室見性院から見ると側室で諏訪後料人と言われた諏訪城主頼重の娘で、信玄は親の仇であるが、男子を誕生し勝頼と名乗り武田当主と成ったが、夫が当主だったらこの様な失態は無かっただろうし、自分は信玄と正室三条夫人との間の次女で有り、夫梅雪も当主としての資格が有っても良かったのではないかと思ったでしょう。

見性院は当然今後勝頼では家臣団にも信頼されず武田家の将来は無いと考えた事でしょう、そこで徳川方に寝返る条件として武田家再興を約束させた。

家康としても信玄に敬意をもっていたし、その配下の有能な家臣団は今後の徳川家に必要不可欠と考えたでしょう。

○見性院には元亀3年誕生の嫡男勝千代君がいた、梅雪は甲州、駿河にまたがる穴山郷甲斐河内、駿河江尻城を支配していた、天正10年2月家康の誘いに応じ寝が居る。

3月勝頼一行は小山田信茂の裏切りで岩殿城に入れず天目山にて自刃。信茂は信長嫡子信忠に進言するが「主君武田勝頼を裏切るとは何たる失態」と切腹させられ、信茂一門妻幼児共々処刑される。

名門武田家崩壊となる。

後に小山田一門で生き残れた者で徳川に仕え水戸初代城主武田信吉と共に来水した信吉33人衆の中に梅雪の重臣芦沢伊賀守等と共に小山田の名が見える。

○天正10年5月家康、梅雪一行20数人は安土城で信長の接待をうける。見性院初め多くの武田家臣、伊賀守達はいかに喜んだ事だろう。

しかしその後に不幸が続くとは思ってはいなかったでしょう、6月家康、梅雪一行は堺視察中、信長本能寺にて明智光秀の急襲により自刃、急遽帰国となるが梅雪は途中、山城国宇治田にて野盗土民に襲われ殺害される。

そして天正15年6月勝千代も11歳で江尻城にて病死する、将来楽しみなる人物なだけに見性院の悲しみ、絶望はいかばかりか想象に絶します。穴山家は断絶する。

○ここで家康側室と成る見性院の養女お都摩に付いて見る、都摩は明智領に近い岩村城主秋山信友の弟秋山備前守の娘でありお都摩の方(下山殿)と呼ばれていた、秋山一門は源氏の流れをくみ遠く初代武田の遠光の子が秋山を名乗り代々武田家の重臣として仕える。

都摩は武田家一門の期待を背負い家康の側室と成り家康5男の生母となる、子は武田信吉(幼名万千代君)と名乗る。岩村城については当初遠山景任が城主であり妻は信長の叔母で景任が病死し未亡人となる、元亀3年信友が未亡人に結婚を申し込み和義開城となる、岩村城は武田勢力圏となるが設楽原の戦いで武田方大敗した為城は孤立する。

天正3年信長命により信忠3万の兵で戦い多数の兵が死傷した、信友も城を守り切れず城兵、幼児婦女子助命を条件に降伏、信忠これを受け入れた、開城す、報告を受けた信長は信友叔母を初め婦女子幼児も含め一門尽く処刑せよとの命により長良川の河原にて磔刑となる。

 

○小田原の戦い

天正16年北条氏規上洛秀吉と会談す、名湖桃(名ぐるみ)問題で「惣無事令」に背いたとして北条征ばいが始まる。

天正18年3月秀吉北条攻めの為京都出陣する、6月伊達政宗「死に装束」で小田原参陣、家康の配慮で事なきを得る。

○水戸に関する件のみ記載します、

6月25日秀吉軍(前田、上杉)八王子城を落とす、

城中を守備する家老中山勘解由家範に前田利家より開城の説得が有ったが「あくまでも北条に忠節を誓う」と妻と共とも自刃43歳、後に家康遺児兄弟を召抱える、兄は幕府旗本と成り3代目直守は初代火盗改頭となり鬼と言われた、弟信吉は水戸藩主頼房に仕え約1万石を賜り付け家老となり中山備前守を名乗る。

○牛久城主岡見氏、天正11年頃に北条に従属する様に成る、北条にとっても牛久城は佐竹下妻城との常陸戦線の境目の城であった。

天正18年秀吉による北条傘下の城攻めの豊臣、家康連合軍にひとたまりもなく牛久城は落城した。

岡見城主には落城前に家康より「逃げよ」との指示の連絡が有った、後に岡見城主の子、天和6年岡見甚内経吉は水戸藩に仕え300石を賜り大番組を得てのち大番頭となる。

○上総坂田城主井田因幡守

井田刑部、世々上総坂田に在、北条氏に仕。因幡守初北条に仕え、天正10年12月氏政より付属の士25人の著到文書を伝、天正18年小田原同時落城。 その後北条亡して、徳川万千代君に仕え200石を賜る、(万君古張)

慶長中威公に仕旧知を賜役名不詳、17年12月9日死。

○天正18年勝浦城落城

城主正木頼忠の娘は、後に家康側室養珠院「お万の方」となり紀州頼宣公、水戸頼房公の生母で「お万布晒し伝説」は有名である。後記で少し詳しく見て見よう、

○前出の朝比奈泰勝は秀吉、家康の命を受け北条方えの密偵として度々派遣されていた。7月5日小田原開城。

秀吉は主戦派北条氏政、氏照、松田憲秀、大道寺政繁自刃させ、北条家は家康に配慮し氏直に化粧料として一万石を与え北条家を存続させた。

○7月13日秀吉の命により、家康はこれ迄の所領と北条の貴領伊豆と関東6ヶ国を交換する。

家康は積極的に関東の名門の末裔を集めた、名門大田道灌の子孫と言われる、(お梶)後の英勝院を側室とする、聡明な女性で有り「塩」の話はよく知られている、倹約家であり家康の信頼も厚く駿府城の奥向きを任される、春日局より上の格位に有り家康の重鎮とされる。紀州藩主頼宣、水戸藩主頼房の養母である。ただ出目に付いてはいくつか説がある。鎌倉に英勝寺が有り水戸の尼寺とも言われている。

○前出の朝比奈泰雄について、泰雄は永禄中今川家滅亡後北条美濃守氏規に仕え伊豆にな山城代勤、天正18年小田原の戦いに氏規は小田原に篭城し泰雄はにな山に留て城を守る。

小田原没落して氏規は高野山に幽居して一睟と号す、泰雄は北条氏盛に仕えるが、後故ありて暇を請う、剃髪して雲斉と号し野州足利に浪人となり慶長11まで約16年間在居する。、

○頼房慶長11年9月23日(3才)下妻城主となる。

○「慶長12年神君家康本多上野介正純に命じ泰雄を召しだして威公(頼房)の後領地常州下妻に遣して城代となさしむ、是比役、初なり」

○水府系纂文中より「ある説後領内賊徒多して穏やかならず故に泰雄台聞きに達し、前城主多賀谷左近太夫三徑が家臣古谷隼人、渡辺佐渡某、下妻に留まるを召しだし各百石を賜ひ命を当て思惑を廻し賊徒を鎮め後領内速やか静。威公14年3月伏見より駿府に到り給ふ時遠州掛川に於いて初て、威公に謁し奉る、12月10日伏見に於いて神君家康より3000石を賜り、威公水戸に移給ふ時城代元の如し。」 元和3年2月朔病で死す76才、一女有り。

上記を見と泰雄は北条崩壊後浪人と成り剃髪して世をすて悶々した思いで日々を送って居た事だろう。そこに突然来訪者が有り、しかも家康四天王の一人本多正信嫡子正純である(正純は徳川家重臣大久保、本多家の攻争で宇都宮吊天井の問題で疑惑を掛けられる)驚いて平伏しただろう。そこで神君家康の命が下り頼房に仕え下妻城代となる。急ぎ当地におもむき登城するが、下妻城下は賊徒が横行し領民は恐怖の日々を送っていると聞き、前城主多賀谷氏の家臣の残留者で古沢、渡辺を召しだし賊徒を成敗し領内速に平安を取り戻す。戦国を戦い抜いた武将には容易な事である。 やっと我が家に春が来た思いであろう。

これ迄及び今後登場する人物の生涯等を調べて見たいと思います。