第三章 水戸創成 武田信吉

○佐竹は慶長7年6月14日水戸城開城、6月15日常陸大田城引き渡す、徳川家臣水戸城接収に乗り込む、松平一生、松平周防守泰重、由井信濃守貞繁、鹿沼興五郎、藤田能登守信吉等共々水戸城勤番をになう。

慶長7年7月、前佐竹家臣、車丹波等一揆有り、、常陸武士の意地を見せてやろうと丹波、大窪兵蔵久光(大窪城主)

馬場和泉守政直(太田馬場城主)等、水戸城奪還すべく決起し城をうかがう時松平一生に番所で見とめられ生け捕りとなり一揆の廻文を得た事により賊ことごとく捕らえられる。同年10月10日、丹波は水戸吉田、久光は青柳、和泉は緑町で処刑される。(寛政重修譜)北茨城市史。内容は異なるがこれら関する文献はいくつか有る。この時期何らかの騒動が有った事は事実と思われる。

○武田信吉慶長7年11月初め水戸城主(15万石)を命じられ水戸に向う、信吉家臣の多くは穴山梅雪を中心とする旧武田遺臣で武田再興を期待、願い来水する。お目付けてきに三河松平家臣筧助太夫も見られる、家臣団は157人が来水した様である、最初水戸に来たのは100人くらいではないかと推察します、家臣水戸城入城は11月11日である。

○これらの件について私なりに仮説をたてて見ます、来水には当時治安が悪いうえ信吉も病弱な事を考慮し水路を活用したと思われる。信吉は直接入城せず、城の北側を流れる那珂川の対岸約4~5キロの台地にある、通称浜御殿に滞在した文献がありこれを見ると水戸城周辺の安全を確認した後入城したと思われる。

○まず佐倉城南側の河川を印旛沼方向に航行し当沼を通り利根川に通じる水路を進み利根川を下り潮来を左に視て北浦を北上し巴川を数キロ上り下吉景で、下船し大和田を通り陸路7~8キロの紅葉街道を涸沼に向い海老沢の船着場にて船を調達し涸沼を通過、涸沼川より那珂湊に近い那珂川に出て同川を水戸に向い約11キロ先の水戸城下の大杉山の船着場に着船する。浜御殿に付いて見ると、みの舘(場所那珂市菅谷みの内)舘主柏村越前守吉長の後継者が天文年中在住していた、柏村氏の先祖が宍戸合戦で戦死し、その子供兄弟が百姓となったのであろう、慶長年中二人が住んでいた所、伊奈備前守がこの舘を所望した。(旦旧考証)

この舘に信吉の御殿がおかれた。慶長8年9月11日信吉が死去するとその跡に伊奈備前の屋敷がおかれ鈴木金太夫が住、のちに碑蔵が建てられた。(旦旧考証)。

 

これらを見と当時水戸城下は佐竹残留臣下の浪人も多く100人足らずの信吉家臣は多忙を極めた事だろう、もちろん徳川関東総奉行も協力したであろう。 「この様な時、生瀬の事件が有っただろうか?検証して見よう」

○慶長年中小生瀬村騒乱ありとあり、一村みな殺しとの伝説がある、現実なのか疑問がある為、加藤寛斉(常陸国北郡里程間数記、弐)の一説を参考にする。外にいくつかの説もある。

疑問点1 文献の初めに記録も絶へ、伝説とても星移りて遺失となれ、粗事耳に残ったるものの説話とある最初に実際に有ったか事か、無かったのか実の所わからないと言っている様に思われる。

疑問点2 寛斉の出筆時期は文化5年(1808年)で有り事件が起きた時は慶長7年(1602年)で約206年前となる当時の文献も資料も無いし200年も前の話で実体はどうか。

疑問点3 一村みな殺し、は有りえないと思われる。現実にこの事件が有ったにしても村人の半数は周辺の山に逃非できる。

疑問点4 事件実行日は慶長7年10月9日と有る。前記の通り武田信吉一行が来水したのは11月11日で事件の1ヶ月後である。事件の頃は信吉達はまだ佐倉城に居たのである。当然芦沢伊賀守も同じと思はれる。

疑問点5 水府より征将打入て、とある。ここには将の固有名詞はない。しかし将は芦沢伊賀守と書かかれている書籍もある。

疑問点6 四方よりの打入りの一方に小中口、とあるが当時山中に兵の進む様な道が有ったのか又「一瞬の間に村中一千有余人のもの夕べの露ともろともに消失ける」とある。又蛇顯出で樹に纏ふ、妖怪を生かす、霊あるにや、とか奇談とする所多々ある様に思います。その他山方村においても同様な事があった。

以上検証点がある様に思う。この時期佐竹領主は秋田に向いその後徳川信吉が水戸領の治安を安定させるまでの期間に各地で物騒な出来事が有った事が推察できる。

○この時期備前守は領内の農政全般を担当し治水事業も行いその一関として水戸下市の通称越前堀の普請工事を指示、指導した、この事業にも多くの旧武田家臣が参画したと思われる。この頃初代藩主となる頼房(1才~2才)は伏見に家康と共に暮らしていたと思われる。

○慶長8年9月11日武田信吉死去(21才)。武田家断絶、これで武田再興の芽が無くなった。

見性院、初め芦沢伊賀守、武田旧家臣達の悲しみはいかがで有ったろう、残念に思う。

もし信吉が健在であったとしたら尾張義直より兄であり70万石くらいの大名になったであろう。幕末の徳川幕府及び水戸藩も変わっていただろう。

○又当時旧穴山家臣の最高禄高は万沢主税助、河方織部、正木権兵衛等3000石~8000石、で佐野兵左衛門

2000石などでまもなく重臣の間で紛争が起こり、芦沢伊賀、佐野から万沢、馬場、帯金の不正を家康に訴えた。

芦沢、佐野は共に穴山衆で財務、土地をつかさどる、万沢ら4人は元穴山の家老である。

慶長9年正月家康自ら吟味を行い家老達を改易処分とし、芦沢、佐野に水戸財務を任される。そして家臣33人だけ水戸に残し、(これを信吉33人衆と言う)残りを江戸に召し寄せた、武田家臣団解体となる。(水戸市史)

○そこで家康の心境を思うと初め本気で武田再興を考えたが信吉の死去により武田家臣団に武田再興をあきらめ、

心身共に徳川家に尽くす様仕組んだ様に思う。

○信吉33人衆に付いて見る、芦沢伊賀守、佐野兵左衛門が各1000石で家老、穴山臣下の稲坂市左衛門もいる。

33人の中の数人を見る。

○大森求馬および一門は名門にて出自は平安期の執政藤原道隆より14代目に小田原城主、大森頼春が成り、それから4代目の寛頼は北条早雲に奇襲攻撃をされ城主一行は富士山麓を逃亡し武田に仕える。

○市川三左衛門は元今川譜代で主家崩壊後徳川に仕える慶長年間、伊賀野守配下で水戸町奉行を勤める。

○荻庄左エ門君元、駿州に在し今川家に属す、永禄年中祖父武田信玄の為に城譲り、後戦死、父善次郎、穴山信君(梅雪)に仕ふ、君元も信君に仕える、後万千代君(武田信吉)に仕え200石を賜ひ、慶長年中、頼房に奉仕て大番組となる、後300石となり寛永10年勘定奉行、郡奉行となる。承応元年11月28日死す、74才。

○朝比奈七郎衛門泰元は傳役(後見役)として同道する。当初普請奉行、元和年中勘定頭600石となる、寛永3年伊賀守配下で勘定頭2人で七郎衛門泰元と三木五兵衛玄興が成り、勘定奉行7人が配下に付き、目付に望月恒隆、小田厚知、2人が成り、勘定奉行7人の内1人に荒川十郎左衛門が入る。寛永12年水戸奥方番頭と成り興力2騎、同心20人を附けらる。慶安元年2月13日死去72才

○望月一門は旧武田家臣で望月五郎左衛門恒隆は芦沢信重と共に水戸創成期の能吏であり水戸堀大修築、寛永地検、水利事業に奉行とし能力を発揮する。中でも笠原水道構築は下市町飲料水確保は「分別五郎左衛門」と称され秀れた判断力で大事業を完成させる、平賀寛衛門、三宅十衛門等の貢献も大である。

○その他、園部、尾崎、門北、都築、西郷監物、朝比奈孫左衛門、近藤、小柳、芦沢、正木、天野、油井、大河内、

八戸木、大森等33人衆の中に見られる。又三河徳川直臣の筧助太夫も総目付的役で同道している様に思う。

○信吉死後のちの紀州藩主となる徳川頼宣が水戸2代城主となるが幼少の為か一度も来水は無かった。

○次に伏見7人衆が来水する、頼房乳母武佐の関係か三木一門等で光圀時代に頭角を現す。後記で検証してみたい。江川、渡辺、井上、馬井等がいる。又駿河12人衆が来水する。(旦旧孝証)  四章につづく。