昨日に引き続き、昔の日記を公開・・・V(>▽<)V
「何をもって自分は朝鮮人だというのか・・・。「私は偶然日本で生まれたけれど、朝鮮人として生まれたので朝鮮人として死にたい」・・・金曜日の緊急集会の打ち上げで私は皆にそう言い放った。“朝鮮人が朝鮮人として朝鮮人らしく生きる”・・・それは一体どんな生なのか。習慣として風習としてあるところの生活を再現、継承していくことなのか、伝統という名の固有の表現形態を伝承していくことなのか・・・。精神的なあり様を守っていくことなのか・・・。民族とは単なる人の集団ではなく、生活に根ざしたひとつの精神的な集団であるとしたなら、日本という土壌で、風土も環境も全然正反対の土地で生まれ育った私たちが取り戻そうとする“民族”は、生活に根ざしたものとなり得るのか、甚だ疑問だし、でも、かといって、生活の中に民族は皆無なのかというと、そうでもなかったりする。朝鮮人であることにこだわり続ける自分がよりどころとしているものは何か?“民族的である”とはどういうことなのか?1991.7.19」
25歳の私の質問に42歳の私はそれなりに答えることができる・・・。でも、そうして自分が歩いてきた道のりについては、やはり忘れてしまってる・・・。
捨て忘れた日記のおかげで、思い返し、思い直し、思いふける・・・( ̄ー ̄)