皆さん、こんにちは。
今日は土曜日、3月21日。春分の日が過ぎ、いよいよ春本番……と言いたいところですが、今年は少し肌寒さが残っていますね。

 

桜の便りもちらほら耳に入ってきますが、浅草の街では、

まだその気配はわずかです。

専属通りを歩いても、見えるのは小さなつぼみ。開花まではもう少し、といったところでしょうか。

 

浅草の国際通り沿いには、少し遅れて咲く桜があります。
一般的なソメイヨシノよりも、3週間ほど遅れて満開を迎える種類です。

 

一葉桜。

 

コレ↓


そのため、4月中旬から下旬、

あるいはゴールデンウィーク頃まで楽しめることもあります。

 

コロナ禍住んでいた熱海では、河津桜や熱海桜といった、早咲きの桜がありました。

 

※熱海桜↑です。


同じ桜でも、咲く時期が違うだけで、季節の感じ方がこんなにも変わるのかと、改めて思います。

 

今日はそんな春分の日に、ふと考えたことを書いてみたいと思います。


 

先日、大学時代の同窓生と食事をする機会がありました。
同い年ということもあり、話題は自然と似てきます。

 

「健康寿命はあとどれくらいだろうか」
「一日一日が、ずいぶん貴重に感じるようになった」
「これから、何を学び、どう生きるか」

 

若い頃にはあまり口にしなかった言葉が、

当たり前のように交わされるようになりました。

 

私はどちらかというと聞き役でしたが、友人たちの話を聞きながら、

ひとつの思いが頭の中に浮かび続けていました。

 

「あと、何年生きられるのだろうか」

 

仮にあと20年生きられるとして、その20年で人は何を得られるのか。
あるいは、何を理解できるのか。

人間として生まれ、ここまで生きてきた中で、
自分の人生にはどんな価値があったのだろうか——そんな問いも浮かびます。

 


人は皆、それぞれの人生を生きています。

生まれてから今日までの記憶、経験、出会い。


喜びや後悔、選択の積み重ね。

 

それらすべてが「今の自分」を形づくっています。

 

地球の長い歴史の中で見れば、私たち一人ひとりの人生はほんの一瞬です。


それでも、その一瞬の中に、数えきれないほどの思いや出来事が詰まっています。

そして今、私の周りには、家族がいて、友人がいて、
こうして日々を穏やかに過ごせる環境があります。

 

三食きちんと食べられること。
安心して眠れること。
学ぼうと思えば、いくらでも学べる環境があること。

これは決して当たり前ではなく、むしろ深く感謝すべきことだと感じます。


人間には、さまざまな欲があります。

食欲、物欲、名誉欲……。
けれど、そのすべての土台にあるのは、「命を保つこと」ではないかなと思います。

 

その土台があって初めて、人は考え、行動し、人生を築いていくことができます。

 

そう考えると、こうして日常を過ごせていること自体が、
すでに「十分に価値のある人生」なのかもしれません。


それでもなお、私は思います。

 

「生きるとは何か」
「なぜ人は生まれ、そして死んでいくのか」

 

 

この問いに対して、自分なりに納得できる答えを、
人生の終わりまでに見つけたいと。

 

おそらく、はっきりとした正解はないのでしょう。
けれど、日々感じること、考えること、その積み重ねの中に、
少しずつ“自分なりの答え”が形づくられていくのだと思います。

 


桜は、やがて咲き、そして散ります。

 

※隅田公園の桜↑(昨年)ソメイヨシノ

 

その短い時間の中で、私たちは何を感じ、何を見出すのか。

今年の春は、そんなことを静かに考える季節になりそうです。