風が通り過ぎるように時が一目散に流れていくのを感じます。

 

先日、古いものを整理していると、高校時代に仲の良かった友人からのハガキが出てきました。懐かしさが込み上げてきて、「今も元気でいるだろうか」「住所は変わっていないだろうか」と思いを馳せながら、手紙をしたためました。

 

しばらくして、その友人から返信が届きました。

それは昔と変わらぬ、丁寧で達筆な筆さばき。そして、あの頃の思い出が静かに綴られていました。

 

※今もかわらない校舎 この道をよく歩きました。 

 

自転車通学でした。
よく一緒に、夕日に照らせれている校舎をバックに帰ったこと。
ちょっとしたことで喧嘩をしたこと。

 

そんな学生時代の一瞬の光景が、そのまま鮮やかに蘇ってきます。

高校時代は多感な頃ですから、思い出そうとすれば、まるで映画のように心にシーンが浮かんでくるものです。

 

私の通っていたのは、男女共学の公立高校。愛知の中でも規律の厳しい学校でした。だからこそ、ひとつひとつの思い出が今でもくっきりと心に刻まれているのかもしれません。

 

※前がグランドです。

 

昔のことを思い出すのは、年を重ねたせいなのか。
けれど、それは若い頃にあった“未来への不安”や“切迫感”が少し薄れてきたからではないか──そんな気もします。

 

人生を少し俯瞰して見られるようになったことで、
自分自身の存在を、少し距離をとって見つめられるようになったのかもしれません。

 

現在のリアルな五感の体験でなくても、心は時空を飛べるのです。

 

脳はイメージの世界では今も昔も未来も分け隔てなく存在を感じることができます。

だから寝ているときは夢と現実とを判断できません。

 

 

私の予想では現実に引き戻されるのは覚醒した意識のせいで、

意識がないと夢の世界のままですから、その状態から意識が覚醒しないと~それが亡くなるというものではないかと思うのです。

 

現実の世界の中、つまり意識を逃避させてイメージの中を彷徨うとすれば

それは瞑想の世界に近いものかもしれません。

 

芸術家という存在は、意識でつくった世界観を、夢という“イメージの海”へと持ち込み、自由な心でそこを旅し、
その中で出会った「何か」を、再び意識の世界へと持ち帰ってくる人なのだと思います。

 

静かに、動きながら、一連のストーリーとなって。
それが「表現」として現れるのです。

 

 

話が随分それましたが、

時はいつも前に進んでいるように見えて、
心の中では、いくつもの過去と未来が静かに同居しているのかもしれません。

 

記憶は色褪せることなく、心の奥でずっと生き続け、
ふとしたきっかけで、また温もりをもって戻ってきてくれます。

夢も記憶も、イメージも──
それらは現実とは違うかたちで、私たちを生かし、導いてくれるのです。

 

「記憶は消えない。ただ、静かに待っている。思い出してくれるその日まで。」