銀塩写真のような人間味のある写真をまるで 
アナログレコードをレコード針で聴くように それを愛する人もいるが 
あまりにも 銀塩はアマチュアからは工程が多すぎ、面倒くさい。

30年ほど前に イマージュだったかという写真雑誌に当時カシオから
小型デジタルカメラ(1987年QV-10・今ではおもちゃ)が発売され 
これからいよいよデジタル化としての波がやってくる!とカメラ雑誌内に
連載執筆 をもっていたことがあったが、その雑誌にはプロ写真家達の
アーティステイックな写真ばかりが掲載され僕は全く感心さえなかったものだ。 
ITの波がカメラの与える影響そしてその近未来は何も 画素数を増やす
という行為だけでなく、表現媒体としての写真の使われ方の広がりと
一体をなすものである。

今その 連載の 続編を書くとしたらこうなる-----------------------

2000年以降 写真技術、カメラの発達はITによって飛躍的に進歩し
大衆化した。子供の頃にカメラは高級なもので高価なものと思っていたもの
だが、このデジタル革命と量産によって 一挙に低価格化し 
今やスマホの機能の一部、数十年前の画素数をはるかに上回るカメラが
搭載されている。
技術的にはプロの使う高級機との差別化ときたらもはやレンズぐらい
しかなかろうと思う。 他はフィルタリングと編集のノウハウだ。
それは PHOTOSHOPやイラストレター、ライトルームなどなど
ソフトウエアによるレタッチ技術になる。 早い話が編集である。
それらを道具として使うことはIT普及によりもはや必須になってきている。
 
日本人は生写真に拘る傾向が強いが、海外の流れはよりITには敏感で
商業化とアートの両先端を 引き伸ばしている。
つまり限りなく芸術的か 限りなくビジネス的かということだ。
芸術的というのは写真に特化したものでなく絵画を表現するものに共通する
個々の芸術性による。
ビジネス的というのは お客様が評価し写真の延長線上になにか別の商品
を購入するという目的を達成させる素材となるので 全く 方向が違う。
その意味で 現代はIT化とネットの普及の中で キュレーションの波が
必然的に訪れIT上で融合と統合を繰返し 
ソーシャルメディアの一素材として使われるようになっている。 
その点では 芸術性とビジネス性を融合してゆく可能性もある。
もはやそのままを表現するという本来の写真の域から、
さらに変容をとげており表現に別の要素が加わり
総合的メディアの部品として存在価値をもちつつあると言える。

カメラは画素数を これからも増やして行くだろうが、写真で何か表現する
という素朴な人の行為=空間を切り取って記録していきたいという思いは
かわらないだろう。
これは 見方を変えれば脳の機能に他ならない人の欲求でもあるのだ。

映像世界は=記録=まさに人類の歴史の記憶を 今一瞬、どこかの誰かが
個々で シャッターを切り ストックしつつあるのだ。

「3つの焦点」 
人間は生きてきた経験の中で その実体を脳で判断できるものだ。
以下の色彩のない世界であっても 
それが何かをみつけられることで 空間と物体その奥行きを想像できる。


船上にて。