嵐やトラブル続きでなかなか大西洋には乗り出せない。
何事もそううまくはいかないものだ。
人生は修行なのだ(笑)。
著者のリンデマン氏は「戦争で手が麻痺した」と記述している。
年齢から察するに、青春時代はナチスドイツの真っ只中にあったはずだ。
今のところそれに直接触れた箇所はないが、ちょっと興味深いところだ。
では8回目でござる。

アローン アット シー (8) 41~49ページ by ハンス・リンデマン
翻訳 カイチョー
やっと朝が来た。セール用の布を見つけたので緊急用のシーアンカーを縫ってつくった。私の手は昨夜の出来事でまだ震えていた。明るくなると、一隻の大型船が近づいて来た。私はそれに向かって万歳!と叫びたいような衝動に駆られた。もう十分過ぎるくらい十分だ。やっと終わったのだ。しかし船は右舷の1海里あたりを通り過ぎて行った。誰も私の存在に気づいてはいないようだった。私には窓からじっと見ている男の顔がはっきり見えたのだが。我々の間の海は荒れて泡だっていた。私は白いライフベルトを振った。応えはなかった。私は体を起こして再びベルトを振った。応えはない。私を見てくれ!何とか私の存在に気づいてくれ!しかし何の応答もなかった。私はがっくりとコックピットに滑り落ちた。船が揺れた。声の限りに「止まれ!止まれ!お礼はするからお願いだ!」と体が震えるほど必死に叫んだ。そしてライフベルトを高く振りかざした。しかしタンカーは荒れた海を波を蹴立てて通り過ぎ、窓の男は渦巻く海を夢見るようにぼんやりと眺めていた。私はシートに沈み込んだ。海は荒れていて白波が立ち私を発見することは難しいのだと思うしかなかった。その時はさすがにくじけそうになった。もうだめかと思った。海に飛び込んでしまおうか?突然、雷のような音とともに大波がコックピットに崩れ落ち、コンパス越しに私を叩きつけた。水が轟音とともにあらゆるところからリベリア号に侵入し、カメラも時計も本もびしょ濡れになった。私は震えて悪態をつきながら水を汲み、祈りながら水を汲み出した。仕事が終わるとまだ緊張はしていたが不思議なことに落着きが戻ってきた。私は船酔いの薬を5粒そのまま飲み込んだ。それは鎮静効果があるはずだった。それからワインが緊張をほぐし休まる効果があることを思い出した。私はワインの入った細口瓶の取っ手を握って傾け、一気に飲んだ。酔いがまわりむき出しの木の箱に横たわった。ベッドに横たわっているかのように幸せだった。私の望みはただ眠ること、それだけだった。
翌日、風は強く、ブレーカーは岩のようになってハルに襲いかかってきた。私はまた水を汲み出しコックピットにもぐり込んだ。タンカーが止まって私を拾ってくれなくてよかったと思った。私のスピリットは甦った。新しいシーアンカーを2つ縫い上げ、それをプラスチックロープで結んだ。
海は相変わらず荒れていた。強風が吹きすさび、大波が吠え狂った。私もまた口笛を吹き、歌い、船の遅れを罵った。オポロトで「グッドアドベンチャー」と呼ばれていたので買ったキャンディーの瓶を探した。しかし、目下の状況と同じくらい苦いだけでがっかりだった。いろいろ体の問題が発生した。いつも水に浸かっているので、小さな潰瘍が腫れあがった足にたくさんでき、踵もどこなんだかわからなくなった。お尻は一斉射撃を受けたように火を吹いていた。
嵐は4日間続き、貿易風はパワフルなうねりを残したものの静まった。リベリア号は立派に試練に立ち向かったが、私は弱っていた。希望を失い屈服する瀬戸際にいた。その3時間後に正午の位置確認をした。経度は私がアフリカ沿岸とカナリア諸島の間に拭き流されたことを示していた。海流に逆らって戻るのは無理だった。最も近い港のダカールは700海里も南にありとても遠かった。少し考えた後、私はスペイン領サハラのリオ・デ・オロの首都ビラ・シスネロスへ向かうことにした。
途中で一匹の生きているイナゴが海に浮かんでいるのを発見した。アフリカからカナリア諸島へ虫が移動するのはよく知られていることだ。ある時には醜い鵜が私を訪ねて来た。勇気を振り絞って海に飛んできたのだろう。たまには違うものを食べようと、イルカをモリで突き食べた。風は弱まり、カツオノエボシがリベリア号と同じくらいの速度で泳いでいた。静かな海でこれらのクラゲはしばしば引っくり返った。彼らの櫛は湿ってなくてはならないので、静かな海ではどちらかの方向にかなり深く体を傾けて濡らすのである。荒れた海ではクラゲは上手に身をこなし櫛は波の飛沫で常に湿気を保つことができる。そして私は魚のように海を住処とする海燕の生態を一日中見て感動した。
3日間帆走した後にサーフがブレークする音が聞こえてきた。間もなく、ボヤドール岬の灯台の光がもやの彼方から見えてきた。午後遅くになって岩と砂だらけの海岸線が見え始めた。貿易風が巻き上げたサハラ砂漠の砂だらけの長いビーチはオレンジ色の地獄のように見えた。
ラダーを失い、私は1日に14時間もパドルをラダー代わりに保持していなければならなかった。戦争中に部分的に一時麻痺した左手には過酷な仕事だった。腕は太陽で焼けただれ、手のひらは水ぶくれだらけになっていた。
アフリカの海岸が近づくにつれ、昼間はほとんど船が進まなくなった。ベタ凪と嵐とどちらが耐えられるのか私には判らなくなっていた。あまりの静けさに神経が耐えられなくなると、私はカツオノエボシをからかって楽しんだ。水をかけてやるとピンク色の櫛を憮然としたように引っ込めるのだ。プランクトンや魚が海のいたるところおり、毎日この辺を漁場とするスペインの漁船に出会った。ある時突然誰かと話をしたいという衝動に駆られ、アンカーを打って釣り糸を垂れている船に向かって漕いで行った。私がロープを投げると褐色の肌の若者がそれを受け止めた。
「フランス人かい?」
「いいや、ドイツ人だよ」
と私は答えた。
「タバコ持ってるかい?」
「いいや、でも缶詰ならあるよ」
彼ががっかりした様子だったのでそう答えた。
缶詰はここらの貧しい漁夫にはぜいたく品なのだ。あごひげの日に焼けた船長が素早く缶詰を受け取った。
「シ、シ、セニョール」
私は肉の缶詰を渡し、彼らの航海の無事を祈った。
海岸が近づくとサーフの鈍いごうごうという音が聞こえてきた。長いこと私の船について来たイルカがどこかに去って行き、ニシンのような魚の群れが取って代わった。海はデスマスクのように無表情に静まり返り私はなす術もなかった。かすかな風が帆を満たすだけだった。あまりに船が進まなかったので岸に着け歩いてみた。しかし砂の山を見たとき、遅いとはいえ船の方が砂の上を歩くよりははるかにましだという事実に自分を慰めるしかなかった。
ラダーのない帆走は忍耐が必要だ。風に流されるときはいつもメインセールを巻き上げ、パドルを強く支えてコースを元に戻さねばならなかった。サフィを出て20日目の朝、私は冷たい沿岸流に陸からの暖かい空気が触れて発生した濃い霧の中で目覚めた。ローマ人がこの辺りの海を「暗い海」と名づけたのはこの霧がもとになっている。昼頃に一隻の漁船がゆっくり後ろから近づいて来た。やっとのことで帆走しているようだった。横に来たときに挨拶を交わすと、私と同じくビラ・シスネロスに向かっていることが判った。船長が同じ行き先と聞いてロープを投げてくれ、私はリベリア号のバウに結んだ。何はともあれ私にとってはラーッキーだった。島の多い海を目的地までの長い距離を引っ張って行ってくれるのだ。漁船によじ登ると入れたてのコーヒーが待っていた。翌日の午後にはビラ・シスネロスの前海に我々は投錨していた。
大西洋横断を夏の間に実行するという私の夢はラダーとともに消え去った。それで漁船のクルーに私の食料を感謝の印にあげてしまった。私はラダーなしで14日間海にいたのだ。2週間に渡ってパドル操作で辛うじて舵をとっていたのだ。その間も私は毎日10.5流体オンスの海水を飲んでいた。1回につき1.75流体オンスの海水を1日当たり6回飲んでいた。そして今や私の足は休養と運動にも拘わらず腫れあがっていた。海水を飲む利点は何もないことを証明したのだ。実際問題としてここぞというときの力を弱める以外の何ものでもなかった。
ビラ・シスネロスは自然の緑がほとんどない場所だった。このサハラ砂漠の植民地の茶褐色の単調さを打ち破るような木もなく、茂みもなく、草もなかった。いくつかの深い井戸からは塩辛い水が得られたが、飲料水はカナリア諸島から輸入しなければならず目が飛び出るほど高かった。石灰岩の白い家に近づくと家主によって丹精に手入れされた庭がある。彼らはどの道、スペイン軍ゆかりの人々である。かってポルトガル人がここで砂金の交易をしていた。それで、リオ・デ・オロ、金の川という名前が残った。しかし、川は金と同様に人を惑わす。というのも、それは半島を取り囲む長い大西洋の長い腕に過ぎないのだ。現地のアラブの遊牧民モロは青いテントを軍事ラインのように直線状に並んで建てて暮らしている。そしてそこにはハエやノミが群がっていた。ラクダやヤギ、羊が動物テントの周りをぶらついていた。遊牧民はとても親切でよく知らない顔や声が私をミントティーに招いてくれた。私は子供が極端に少ないのに驚いた。幼児の死亡率がとても高いのだ。
そこに滞在中のある日、私は海を無性に見たくなりビーチに降りて行った。そでも私はハエの大群に追いかけられた。砂と同色のカブトムシが尻尾を高く立ててチョロチョロ動き回わる一方で、黒っぽい色の怠け者のカブトムシはまばらな植物の間の穴にもぐり込んでいた。貿易風はここでは海風を立ててはいなかったが、絶え間なく風はビラ・シスネロスの角を回り込んで吹き荒れ、砂を巻き上げていた。あまり居心地のよい場所ではなく、住んでいるのは職業上派遣された人々ともちろん遊牧民のみだった。
3週間後、私は古い郵便船ゴメラに拾われ、リビエラ号とともにグラン・カナリアのラス・パルマスまで運んでもらった。着いた後、船はしばらくの間ドックに放置されていたが、興味深げに漁師や水夫が見に来た。その後小さな工場に修理に出すことができた。
ラス・パルマスにいた間、私はビーチか港にいることが多かった。そしてモリ漁でヌルヌルしたコウイカやタコや怒り狂うヤツメウナギを突いていた。そしてせっせと泳ぎに励んでいたので、友人たちは泳いで大西洋を渡るべきだと主張した。
グラン・カナリアの歴史はカルタゴの探検家ハンノまでさかのぼる。彼は西アフリカの探検の後に記録を残している。その名前はラテン語のcanis(犬)に由来する。野生の犬がうろつき回っていたローマ時代が起源である。何世紀にもわたって、ババリア人、フェニキア人、ギリシャ人、イタリア人、フランス人、スペイン人が今日の住人の美しさに貢献して来た。グラン・カナリア島はドレークを始めとして奪還の試みはあったものの、コロンブスの時代以降スペイン領となってきた。空からはグラン・カナリアは火山島のように見える。島は海に向かって急激に落ち込む深い渓谷が刻まれている。にもかかわらずこの小さな島の変化に富む景観を大陸のミニチュアと呼ぶ人もいるくらいだ。ラクダのいる砂漠、トマトやバナナが栽培されている肥沃な谷、小麦畑やパイン果樹園のある高台、これらはむき出しの山々をとても親しみのあるものに変えている。ナツメヤシ、コーヒー、パイナップルはリンゴ、ナシ、サクランボ、プラムと同様この島に根付いている。急峻な尾根のふもとには湖が点在しており、アルプス的な景観ながら見下ろすと熱帯の湖が見える。これが、グラン・カナリアの細密画なのである。
私の船はボート置き場に横たわっていた。私は隠遁していた船にやっと手を入れることが
できるようになった。出発までの4週間前から最終の準備を始めた。6平方ヤードの四角い帆を切り出し、後ろの部分が引きずり込まれないように鉄枠を入れたスプレーカバーを縫った。コックピットに水の飛沫が入ったり風が吹き込んで鳴り響いたりしないよう、ターポリン(訳注:防水剤)のレベルを上げた。もちろん、新しいより強いラダーが最も大事だった。ガイドつきの大きなラダーを鍛冶屋が作ってくれた。私は最初のラダー消失によって一つのことを学んだ。新しいユーカリのマストやオールを含む全ての部品のスペアを持って行くことにした。ラス・パルマスで最も信頼されているセーラーがたまたま私のガフセールを見て、新聞紙のように弱いと指摘した。私もそれに同意せざるを得なかったが今まで使っていたパーツを捨てるには忍びなかった。(結局、セールは最後まで私の信頼に応えてくれた。スペアのセールは航海の間ずっと快適な乾いた枕として役目を果たしてくれた。)
恐ろしい南風が去り、かすかな貿易風が戻ってきた。嵐は3日間スケジュールを遅らせた。神経がかなり昂ぶってきた。出発の前日、役に立たない時計は港に投げ捨てなければという妄想に駆られて私は目覚まし時計を床に投げつけた。私はナイフで自分自身を傷つけ、不安で胃の調子がおかしくなった。ラス・パルマス最後の夜、リベリア号をカニかごにもやい私はボードの上で寝た。船の準備作業が私の神経を落ち着かせてくれた。その夜は神経も静まり興奮も恐れも私をかき乱すことはなかった。ついこの間のラダーなしでの嵐の航海よりひどいものはないということを私は知っていた。
その夜、暑くて作業で汗をかきボードに座って休んでいると、港の静まり返った海に黒い鎖のように漁船の影が浮かぶのが見え、ドックからは夜警員のいびきが聞こえてきた。1955年10月25日だった。西インドのハリケーンシーズンは間もなく終わる。もしも貿易風が目一杯吹いてきたら2か月でハイチに到達できる。しかし、これまでの経験から先のことはわからないと思わなくてはならない。大西洋の風だけが私の航海の長さとルートを決めるのだ。
(8回目完)