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幸運なことに、息子の担任の先生はどれも素晴らしい先生だった。
今までに5人の先生方にお世話になったが、4人は本当に若い先生で、
私と変わらない世代の年齢だったと思う。
優しくて、厳しくて、子供と同じ目線を意識した理想と情熱に溢れた若い先生たち。
私は、息子の少し持て余しそうな感性を見抜いてくれた先生たちに感謝している。

息子はとても本が好きで、外で遊ぶことが大好きで、物事がはっきりしている。
例えば、前の小学校では本はどこにでもあった。
廊下の端っこのスペースには、いつでも本が読めるようにと沢山の本と椅子が置いてあった。
毎朝15分は、読書の時間を充てられていた。
家から持ってきてもいいし、コミュニティに借りてもいい。好きな本を読む。
そのせいか息子は開放された図書室とコミュニティから毎日、抱えるほど借りてくる。
友達に遊びに誘われても、今日は本を読みたいから遊べないと断ってしまう。
転校するとき、私が選んだ本と息子が選んだ本の二冊をお世話になったクラスに寄贈した。
すると担任の先生は息子に一冊の本を渡してくれた。
「この本を読む度に、この学校を、友達を思い出してほしい。
 先生は、本当に寂しいです。」

好きなだけではやっていけない職業に、きっと教師も入るだろう。
私はそう思っている。

確かに世の中には、素晴らしい教師ばかりではない。
それでも、また反対に素晴らしい教師も沢山いるのだと思う。

だけれど私の知る限り、親達はどんな担任も信頼も尊敬も持たない。
お母さん方は何かしら文句を云いたいのだ。
若い先生には、髪の色が茶髪だ、声が小さすぎる、頼りない、実績がない。
来年、定年を迎える今の先生には、話が長過ぎる、声がデカ過ぎる、授業の進行が遅い。
親が先生に対する姿勢は、必ず子供も同じ態度をする。
子供は親の言うことを疑うよりも、他人の言葉を絶対に疑うのだから。


一つの文句を云うより、一つの良い言葉を云う方が難しい。


私たち親が、学校に対して何が出来るかは分からない。
でも少なくとも、出来ることは新聞の投書の欄で見つけた言葉にある。

『私たちは、いじめられない子に育てることはできない。
 けれども、いじめない子に育てることはできる。』

学校が変わろうとしている今、私たち親も改めなければならない。
親がお年寄りに席を譲らないで知らないフリをしていれば、
その子供は、弱い者にきっと優しくしない。
自分から変わらなければ、何も変わらない。
変えるのは誰かじゃなく、自分なのだ。
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私は双子だからなのか、私と誰かを比較することはない。
常に成績や性格や容姿、身長も友達の数も周囲が勝手に興味を持って比べて。
イヤだな、と思う自分もイヤだったから、自分は自分、と思うようにした。
それが本当は自然で、そして振り回されることもない。
大人になってからは単純に、そんな私でいられたことがホッとする。


厭な話を聞く。職場でも、友達からでも。
私も厭だな、と思う。
けれども厭なのは、そのこと自体の出来事であって、その人ではない。
それをした人は勿論、幼稚で大人気ないとは感じるんだけれど、
私にはまだ厭なことをされていないのだから、一概に嫌いにはなれない。
そりゃ厭なことをされたら、誰だって厭な思いをする。嫌いにもなる。
それは仕方無い。ただ、私には同じようにはまだ嫌いにはなれない。
嫌いな気持ちを吐き出したかったり、文句を云いたくなるのは解る。


人の気持ちを思いやれないで、その人の立場に立てないで、
無神経な物言いをする人は哀れだ。
小さな世界の中で、中途半端な権力をもって、
自分の大きさを見誤るのは賢明な人ではない。


私は、そんな人間にはならないよう努めよう。
と心に決める。それだけでいい気がした。
世の中は広い。
いい人もいるだろう。
いやな人もいるだろう。
意地悪な人も、優しい人も、何にも考えない人も。
それでも、その世界で生きて仕事をして自分の人生が続いていくんだから。
それならイヤな人に出会ったときに、自分はどうしていくのか。
それで私の中の何か、は決まる。
と、思うよ。
この前、部屋を模様替えした。
私は部屋にたくさんの物が置いてあるのは好きじゃない。
けれども、整理整頓も上手じゃないのが私の悩み。(全然悩んでないけど)

というわけで、3日間ほど費やして部屋をさっぱりしてみた。
そのとき、私は見えないものを感じた。人の気配を。
あまりに一心不乱に片付けていたので、誰かが帰って来たのに気付かなかったんだ・・・
そう思って、顔を上げてみたら誰もいない。
むしろ誰かがいきなり居たことに驚いて顔を上げたのに、確かに誰もいない。
そして先日、洗面所にいたら廊下を誰かが横切った。
またTADが自分の部屋に籠ろうとしてるな、と思って見たら、誰もいない。
TADはリビングに居て、TVに夢中だった。
・・・・そうか。あれだな。やっぱり、あれだよな。


そんなとき、沖縄のおばぁの話を思い出した。
息子は怖い話が大好きで、おばぁにそんな類いの話をしてもらったことがあった。
おばぁは元々石垣島出身で、よく『八重山(石垣島)のほうは』と言う。
『亡くなった人に会うために、八重山の方では昔から家の四隅にすすきを置くんだよ。』
『自分で死んで逝った人達は家の中に入れちゃいけないんだ。
 でも入って来ようとするから、みんな玄関の前で苛めて追い返さなくちゃいけないよ。』
それから、石垣島ではよく亡くなった人達が歩いていること。
そうやって見えなくなった人達を、島では普通の日常の中で見えることが多いこと。

私は恐いというより、とても神秘的な話に思えた。
沖縄と北海道には、イタコ文化が根強くある(多分、現在も)。
死者に対する文化が特有で、そして受け継がれている。
本来の人間にはきちんと第六感が備わっていて、それを発揮するのが当然のように思えてしまう。
おばぁの話を聞くと、思わずそうなんじゃないかって信じれてしまうのだ。
だから北海道出身の私の母と、沖縄出身のTADのお母さんには見えてしまうのだろうか。
TADの家族は、みんな霊感が強く、よく見てしまう。
けれども、幼い頃からその文化に接し育ってきたのだから、
ある意味では第六感を育てられてきたとも言える。

実際に遭遇してしまったら・・・
私なら漫画みたいに、口から泡ブクブクで失神しそうだ。

そんなわけで、私が見えなかったのは本当は見えるものかもしれない。
あぁ誰かいたのかもしれない!!(ちょっと怖い)
でも、なんだか神秘的だったなぁ。