「長く女人を見じと願せば、『衆生無辺誓願度』の時も、女人をば捨つべきか。捨てては菩薩にあらず、仏慈悲と言わんや」(礼拝得髄)
秋月龍珉著「『正法眼蔵』を読む」から(PHP文庫)
・道元は言う――自分が中国で修行していた時に愚かな僧がいて、願を立てた。その願は、自分は生まれ変わり死に変わり永遠に女人を見ないことにしよう、というものであった。清浄無垢の生涯を送ろう、というのだから、ふつうだったら、尊い願だというところだろうが、道元は言葉きびしくこの僧の願を批判する、「この願はどんな法に依るのか。世法によるのか、仏法によるのか、外道の法によるのか、天魔の法によるのか。いったい女人に何の咎(とが)があるというのか、男子に何の徳があるというのか」。
そんなことは、本当の仏法とは何の関係もない。「永遠に女を見るまい」などという願を立てたら、『衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)』の時も、女人を捨てるのか、捨てたら、菩薩ではあるまい。仏の慈悲といえないではないか。
もし汝の願のようであらば、女人を済度しないだけでなく、法を得た女人が世に出て、人間界・天上界のために説法する時も、来たって聞いてはいけないというのか。もし来たって聞かないなら菩薩ではない、とりもなおさず外道である。