佐々成政――立山連峰越え―とことんついていない男の「骨折り」 | 明日通信

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「戦国武将101人がわかる!」(小和田哲男著 三笠書房)

 

佐々成政は信長の臣として黒母衣衆(くろほろしゅう)の一員であったが、その後、柴田勝家の与力として北国で活躍した。その功によって天正9年(1581)、越中一国を領することになり富山城にはいった。

天正11年の賤ケ岳の戦いでは当然、勝家方として越後の上杉に備えていたが、勝家の敗北によって成政は秀吉に帰参した。

しかし翌年の小牧の役では織田信雄(おだのぶかつ)に与し、当時浜松城にあった徳川家康に合流するために富山城を出発したのである。

ところが富山から浜松への道は、加賀を通り越前・美濃と抜けるか、越後に出て信濃を迂回するかどちらかである。

だが、加賀・越前は敵国、越後もその当時は秀吉に味方している上杉の領国であり、そうたやすく通れるものではない。残されたルートはただ一つ、立山連峰を越えて浜松を目ざすことであった。

ひと口に立山連峰を越えるといっても、春や夏ならまだよいが、厳寒の12月(天正12年)である。さらさら峠(ザラ峠)を越えて、立山・針の木・燕岳などいずれも三千メートル級の山々を越えることは、今日の登山家ですら容易なわざではない。まして装備も満足でない戦国の世、冬の日本アルプスを越えることがいかに至難なことか、想像に余りある。

事実、成政の一行は60名で富山を出発したというが、浜松に着き、再び富山にもどることができたのは、成政以下わずか7名と伝えられる。

成政一行がそんなにも苦労して雪の立山連峰を越えたのは、まったくのむだ骨であった。すでに、信雄は秀吉と講和していたのである。成政は翌13年、秀吉に攻められて降伏し、かろうじて越中の新川郡を与えられたが、のち、九州征伐では戦功をあげ、肥後一国を与えられて熊本城主となった。

しかし、ついていない男はとことんついていないものだ。肥後入国とともに土豪一揆が起こり、諸大名の応援で鎮圧はできたものの、所領は没収されてしまい、そのあと自刃させられてしまった。