僕は小学、中学とも落ちこぼれ児童、生徒でした。以前にも書いたけど、勉強はしない、宿題はしない、忘れ物はするで、度々両手に水の入ってるバケツを持って、廊下に立たされた。


 小学高学年から中学の夏は僕んちの前を流れる渋海川でヤスを片手に潜水して、仲間と魚の大物を取るかの競争だった。

 冬は裏山でのスキーで探検したり、崖を滑り樹木に衝突した。


 高校は酷かったよ。商業高校へ進学したのは親爺の仕事を手伝うつもりだった。殆どが体育系の部活動で、僕は剣道部に入ったけど、先輩は下級生イジメが趣味だった。


 僕は大学の自由に憧れて、駄目だと言われるのを覚悟して親爺に言ったら、頷いてくれた。

 以前に独自の勉強法をブログに紹介した。


 現役で合格した。嬉しかったよ。でも、大学時代は全共闘の4年間だった。之も以前書いたから省略するね。回り道をして29歳で某女子高校に就職した。


 当然の如くに剣道部の顧問になった。此の高校も酷かった。前任の顧問と校内で合宿した。中年の馬鹿顧問は生徒を膝上に乗せて酒を飲ませてた。


 僕は彼には顧問を辞めて貰い、剣道部の立て直しから始めた。とにかく厳しく生徒には接した。3人だけ残して退部していった。翌年からも10人位入部するも残るのは3〜4人だけ。


 皆んな未経験者ばかりだったけど、鍛えたから東京都のベスト16にもなった。そして、経験者だったK子はインターハイ予選の決勝までいった。


 そんな部活動で特に印象深い生徒にK子とM子が居た。2人共に運動神経は鈍かった。

先ずはK子ですが、志願してレギュラーの連中の元立ちになってた。


 或る日、出鼻小手の練習で彼女はずっと元立ちを続けてた。

 右手が痛いはずと思って(止め)と言うと、K子は(先生、せっかくコツを掴みかけてきたから、もう少しお願いします)


 其れから約30分も続けけたから、(もう止めだ)_他の生徒に家庭科室からバケツに氷を用意させて、水で混ぜた。


 恐らくKの右手は腫れてる。案の定、やっと小手を外したら、予想以上に腫れてたのでバケツに入れさせた。全く困った奴だった。


 でもさ、自分の痛みを犠牲にしても、仲間の役に立ちたいとの思いは尊いし、感動さえ覚えた。レギュラーの連中もバケツの中の手を見て涙ぐんでた。


 M子はアップで校庭を3周するだけで、咳き込んでた。(辞めます)_(やっぱり続けます)_の繰り返しだった。


 辞めようとするも、体育館から稽古の声が聞こえると、(続けます)_となる。


 僕は彼女にマネージャー兼任を勧めた。

試合のメンバー表を書いたり、試合時にはカスキを結び、気合いを入れる為に選手の背中をパンと叩いて送り出した。


 平日の稽古でも一番に体育館に来て、掃除や防具の準備も率先してやってた。

 

 僕の稽古は厳しくも、腰を入れる為に竹刀でお尻を叩くのは普通。弛んでる時には、座ってた椅子を投げ付けた。勿論、演技だよ~?


 夏合宿は尾瀬の片品村だった。午前、午後、夜と1日中稽古をした。

 宿舎や体育館では3年がトイレ掃除、2年は清掃、1年はサポートだ。高校時代の逆をした。


 最終日の前夜はのマネージャーへのMに感謝を込めて木の大皿に寄せ書きをしてプレゼントをしたっけな。Mはウルウルしてた。


 最終日はご苦労さん会を兼ねて、尾瀬ヶ原のにつこうキスゲを見に行った。合宿は7月下旬だったから、黄色の絨毯が広がってた。


 帰りのバスに乗り込む時に、Mが宿舎のおばさんに挨拶すると(彼女ももう3年で卒業ですか)_との言葉がなぜか忘れられない。


 此の方法は絶大な効果をもたらした。下級生は上級生を尊敬するし、上級生は下級生を可愛がった。此のパターンは受け継がれた。


 なので、剣道部の同期会には何代にもって出席してた。

 僕は当時の情景のひとコマ一コマを鮮明に思い出してる。


 そして、そんな想い出を作ってくれた剣道部員に感謝するし、(心からありがとう)_と言いたいと思ってます。


ありがとうございました。感謝、感謝👬👫🌝