日本の登山家で、世界にも其の名前は知れ渡ってる。植村直己は1941年、兵庫県城崎郡の農家に生まれた。
地元の高校を卒業後、明治大学に入学。 (シゴキの明治)_と恐れられた山岳部に入部する。
(地味だが、絶対にバテない負けず嫌いな男でした)_明大山岳部同期の清江氏は語る。
(新入部員に課せられる60kgのザックを背負い、黙々と仕事をするドンくさいでした。ついたあだ名は;ドングリ;、冬山では率先してラッセルをした)
(テントの中でも皆が敬遠する寒い入り口に寝るような男でした)_と植村直己の人間性を語る。山岳部での厳しい4年間を過ごした後、世界の山にチャレンジする。
70年5月11日、日本人初の無酸素でのエベレストの頂上真下、あと10mのところで足を止めた。息さえままならない極限の世界。
後方にはもう1人のアタック隊員、松浦がいた。
(先輩、先に頂上を踏んで下さい)_と松浦。
植村は松浦を待って2人で肩を組んで、世界最高峰の頂きを踏んだ。日本人が初のエベレストに登頂した瞬間だった。
世界初の五大陸最高峰踏破、北極点到達など数々の偉業を成し遂げた冒険家、植村直己が北米アラスカのマッキンリーで下山時、消息を絶ったのは40年前のこと。
(偉大な先駆者でした)_と語るのは七大陸最高峰に登頂した登山家の野口氏だ。彼は不良学生時代に植村直己の(青春を山に賭けて)_を読んで人生が変わったという。
其の野口氏はヒマラヤ遠征時に或るシェルパの家に泊まった。彼は自分が日本人だと知ると凍傷で失った指を見せて、隊長はナオミ、ウエムラだった。
彼は(ナオミはシェルパを人間として扱ってくれた初めての外国人だった。病院にも連れて行ってくれ、その後も仕送りを続けてくれた。今でもナオミのことを思い出す)
しかし、植村には苦悩があった。冒険にかかる巨額の費用は一般人からの寄附だった。
(他人に迷惑をかけてるのでないか)_とのジレンマを抱えてたという。
植村は43歳の時、南極行を見据え冬のマッキンリーに挑み、登頂成功後に消息を絶った。
(冒険とは生きて帰ること)_(と言ってたのに、ちょっとだらしないがないんじゃないの)_って
夫人は気丈に話した。でも、会見後には泣き崩れた。
こうして見てみると、植村直己の人間性がみえてきますよね。登山や冒険家としてのチャレンジ精神。そして、他者を尊重した思いやる心に満ちてる。
国民栄誉賞も受賞したけど、もし生存してたら辞退しただろうな~? (やったことの大きい小さいではなく、自分の夢に向かって、どれだけ心を賭けることが出来たかが大切である)
植村直己
ありがとうございました。感謝、感謝🌋