先ずは知っておいて欲しいのは、全学連にも2つの流れが有ります。1つは中核派、社学同〜の(セクト)_です。

 セクトは質が悪く、暴力革命を目指したり、セクト間の内ゲバで死傷者を出している。

 赤軍派が極端な例かな。


 其れに対して、ゼミやサークルに所属する一般学生で、学費値上げ反対、大学の運営や在り方に疑義を持ち、結成されたのが(全共闘)_です


 僕が所属してたサークルでは(学費値上げ)_に反対するかどうか民主的に議論され、(スト権)_が支持され、(大学の全共闘)_に加盟しました。


 僕たちは大学を椅子や机で封鎖して、大学側に学費値上げの撤回を求めて(団体交渉)_をしたけど、大学側は撤回しないし、大学封鎖は長期化していった。


 僕たちは世の中の出来事にも視点を広げた。

日米安保の危険性や他大学との連携にもね。

早稲田、中央〜。特に日大が酷かった。古田理事長の大学私物化で独裁者だった。


 日大全共闘の助っ人でデモをしたりしたな~。あとね、各大学の全学連が集合して、1〜2万人かで都内を度々デモをした。


 でもね、デモ隊の両脇を屈強な機動隊のジュラルミンの盾に挾まれ、こちらが蹴飛ばすと3倍返しで蹴られたよ。可哀想な僕〜。


 真面目な話、夜のバリケードの中は整然としてたよ。勉強会をしたり、ヘルメットに黒いスプレーを吹き付けたり〜。でもね、僕も貯まるとトイレで〜したかな? 若かったからね〜。


 整然と秩序が保たれていた例として、外で酒を飲んで来た学生は追放したよ。

 夜中には交替で見張りをした。機動隊が来ないかです。


 そして、1969年10月21日の国際反戦デーがやって来た。僕たちや市民、労働者は二手に分かれた。僕は市ヶ谷の防衛省を攻撃するグループに居たんた。


 何時ものパターンで、僕たちは投石とケバ棒、機動隊は放水車と催涙ガス。一進一退の後

機動隊の突入でデモ隊は三々五々で逃げた。

 

 あちこちに警察官が立って、次々と検挙していく。僕は咄嗟に逃げてく女子学生に声掛けして、肩を組みアベックを装い検問を突破した。


 そして、其の学生の下宿に逃げて、TVを観ると新宿駅の混乱に(騒乱罪)_が適用されてた。

 戦後史上、唯一の騒乱罪だね。


 そんな僕たちを歌った曲が有るんです。

森田童子の(みんな夢でありました)_というけど、(あの時代はなんだったのですか あのときめきはなんだったのですか)


 しんみりと歌った曲はとても良いです。しかも動画なので、あの時代が理解出来ます。

安田講堂の攻防も有ります。 ただね、歌詞が1箇所間違ってる。


 (炎に燃えたキャンパス通り あれは雨の金曜日)_で、多分御茶ノ水駅から靖国通りまでの間を封鎖した事があった。フランス風に(カルチャーラタン)と名付けた。雨は降って無かったよ。


 (炎に燃えた)_が僕が全学連を嫌になった理由の1つです。僕たちは明大前の歩道のレンガを砕いて機動隊に投石した。機動隊は放水と催涙ガスだった。


 僕が車道の片側を見ると、セクトの馬鹿連中が一般車両を逆さにして火を付けてた。


 何台かが(炎に燃えた)_のでした。之では一般市民の共感など得られない。此の運動は敗北するなと思った風景が広がってた~。


 そして、更に決定的な事があった。僕たちの大学にも機動隊を突入させると理事会が通告して来た。最後の砦はやはり大学院である。

 僕は大学院を見に行った。


 愕然としたね~? 階段や廊下には教授たちの学術書が散乱していて、土足で踏み付けてある

 僕はまだ2年だったので、上級生に質問した


 彼等の答えは(教授はブルジョア階級で散乱した学術書は其の象徴だって)_さ。

 僕は大学院を後にしながら、学生としての品格や謙虚さも無い馬鹿学生だと思った。


 一般車両を炎にしたこと、大学院で散乱してた学術書が僕の全学連、全共闘との別離だったんだ。 でもさ、(全共闘運動)_での1年半の間に功罪合わせて沢山の体験があった。


 後日談です。回り道をして教師になった。29歳になってた。B女子高校だったけど、話の合う同僚にも会えた。KとYだが或る時、雑談していて知った。


 なんと、彼等2人共に69年の10.21国際反戦デーで新宿駅騒乱罪で逮捕されてた。

 阿呆な連中だね~? 僕みたいに機転を効かせば良かったのにさ。


ありがとうございました。感謝、感謝👫👬