織田有楽斎は茶の湯に精通してて、それを武器に大名茶人とも言われ、乱世の戦国時代を巧みに生き延びた。


 有楽町の名称や数寄屋橋も織田有楽斎に起因してる。有楽斎は信長の13才下の弟です。

 その有楽斎に対して(逃げた男)_と揶揄する言葉が付きまとう。


 兄の信長に仕えながら、(本能寺の変)_で主君の信長が自害したのに、有楽斎は生き延びた。

 信長の長男、信忠と二条御所に籠城するも、信忠の切腹後に逃げた。

 

 その後、豊臣秀吉に仕え、(関ヶ原の合戦)_では東軍に加わった。淀殿の叔父として秀頼を補佐してた。東軍は敗北した。


 そして、豊臣家が滅亡した(大坂夏の陣)_を前にして、大坂城から逃げてる。


 有楽斎は織田家の嫡流であり、茶人としても一流だった。織田家と豊臣家が対立する中、和平交渉役として、度々赴いてる。


 当時は茶の湯を確立した利休に代表される樣に茶会は大名にとって、情報を得る機会として重要だった。大名同士の駆け引きの場でもあった。

 信長は茶の湯を政治的に利用した。社交や接待、交渉など重要な役割を担ってた。


 有楽斎は茶の湯の名人としての立場であった

茶会によって人間関係を築き、権力者からも、同じ趣味を持つ大名や重鎮からも頼りにされた事が分かる。


 そして、政敵であったはずの徳川家康に仕えた。現在の数寄屋橋に邸宅を構え、茶室を持った。そして、数寄屋橋や有楽町の地名が残った


 確か、(有楽町で合いましょう)_なんていう曲があった。フランク永井だったかな~?


 織田有楽斎は乱世を逃げて逃げて生き延びた

本能寺の変では二条御所で信忠の切腹を尻目に逃げた。大坂夏の陣では淀殿と秀頼の自刃を尻目に逃げた。


 確かに茶人として一流だったけど、織田家嫡流としての自覚も無く、我が身可愛く逃げまくった有楽斎には幻滅だね~。


 サントリー美術館で有楽斎ゆかりの茶器や大名などと交わした書状が展示されてる。

 残念ながら観たいとも思わないです〜。


ありがとうございました。感謝、感謝😂😠