遅ればせながらあけましておめでとうございます。
今年もよい年になりますようにと、毎年同じことを祈っています。
吾輩の一族は毎年恒例の集まりを催している。
最近、親族の集まりを面倒くさがる方々もいらっしゃるようだが、吾輩は楽しみである。
全員どちらかといえば田舎者なのだが、思考が若々しく変化を恐れず、無駄に好奇心旺盛で会うたびに新しい話題で盛り上がる。
偉そうにふんぞり反って場を仕切りたがるだけの「ニセ長老」的な人間がいないことも、お互いが気を遣わず、みんなが時を忘れて楽しめるファクターの一つだろう。
現実的に考えると、この先もずっとこのメンバーが揃うことはあり得ない。
高齢者もいるし、不慮の事故だって絶対におこらないなんて言えない。
しかし吾輩にとって、この集まりが良い年のスタートなのだ。
無理なことだと分かっていても、この先もずっとこのメンバーが揃いますようにと願ってしまう。
新年最初のゴミ出し日は大変だ。
日常的に出るゴミに加えて、にぎやかな集まりで出た大量のゴミもある。
そのうえ、年末から年始にかけてゴミ収集が一回減っている。
ご近所も似たような状況であるので、集まるゴミの量はすさまじい。
最近ゴミ捨てになるとイライラする。
「奴ら」がいるからだ。
どこから来たのかはわからない。
ふと気づくとあちこちにいるようになり、数がだんだん増えてきている。
「奴ら」は吾輩がゴミを持って行くと、かなり遠くからゴミ袋に熱い視線を向けている。
気味が悪いが「奴ら」は決して我々の手の届くところにいない。
無感情な黒い眼でこちらを観察し、まごまごしていると文句を言うのだ。
「かぁ~」と。
そう。
「奴ら」はカラス。
最近「奴ら」は急速に勢力を拡大しているようで、実害も増えている。
まずゴミを散らかすことだ。
当然対策を取って防鳥ネットを用意しているのだが、なぜか散らかしてしまうのだ。
一体どうやってネットを突破しているのだろう。
農作物も被害が出ている。
秋にあると吾輩の大好物の柿がたくさん実るのだが、それを食べていくのだ。
2~3個失敬する、ではなく、手あたり次第につついて回るのでほとんど食べられなくなることが腹立たしい。
鳴き声も問題だ。
到底耳に心地よい声質ではなく、ボリュームも半端ない。
それが早朝の、しかも比較的近くで連呼されるのだ。
「黙れ~!」と叫んで追い払いたいが、そうすると吾輩が近所で”うるさい変なおじさん”となってしまうのでできない。
吾輩は経験がないが、カラスに絡まれたという人の話も聞いた。
奇声をあげながら襲い掛かってきたそうだ。
襲われた方はさぞ恐ろしかったことでしょう。
これは傷害事件だ。
吾輩にはカラスに特別敵意を持つきっかけとなった腹立たしい過去がある。
わが家の玄関にはツバメの巣があり、毎年3月末くらいにやってくるカップルを暖かく迎えているのだ。
忙しく巣を修繕し始め、しばらくすると顔は見えずともヒナの小さな鳴き声が微かに聞こえてくる。
そのうち5-6羽の幼くけだるそうなヒナの顔が見えるようになり、親鳥が餌を持って来ると火がついたように泣き喚き餌をねだるのだ。
その幼い顔も2-3週間もすると大人の顔になってきて、飛行の練習を始めたかと思うといつの間にか巣立ってゆくのだ。
糞害など気にならないほど(実際はすさまじいので対策を取っています)、すべてが可愛らしいのだ。
ところが昨年の5月、玄関が何やら騒がしい日があった。
なんだろうとドアを開けてみると、なんとカラスがヒナたちを襲っているではないか!
吾輩の突然の登場に慌てたカラスは逃げたのだが、時すでに遅かった。
大きなカラスに小さなヒナ鳥など逃げるという抵抗すらできず、親鳥も騒ぐだけでなす術などなかったのだ。
残されたのは辛酸極まりない惨劇だけ。
激しい怒りが湧いたことを今でも覚えている。
どうでもいいことだが、カラスは逃げる際に駐車してある愛車MOVEにぶつかり排泄もしていったのだ。
糞ぐらい、普段なら笑って済ませられる(かどうかはわからない)が、この時は怒りの炎にさらに油をそそいだものだった。
おのれ、カラスども、もう許せん!
その真っ黒い容貌と不快な鳴き声で、近くにいるだけで気味が悪いのに、さまざま実害を出している以上なんとかせねばならん!
そうと決まれば基本中の基本”彼を知り己を知れば百戦危うからず”からスタートだ。
吾輩は、もっとカラスのことを知らねばならぬ。
おお、なんだこの本は!
これこそ吾輩が探していた本に間違いない!
吾輩は一冊の本を手にレジへ直行した。
「カラスの教科書」
"街には街の「生態系のバランス」がある。
しかも、その環境を作り出し資源をあたえているのは、人間だ、という点が皮肉だ。"
松原 始
おお、なんだこの本は!
これは吾輩が探していたものとは断じて違う!
カラスへの怒りの炎がどんどん小さくなってゆくではないか!
・・・ダメだ。
カラスが「良い」「悪い」ではないのだ。
問題は吾輩、そして人間側にあるのだ。
済まぬな、カラスよ。
せめて詫び状をしたためることにしよう。
前略
カラス殿
私と、いや、人間とあなた方との関係が悪化していったいどれくらいの年月が流れましたでしょうか。
今や、少しWEBを検索しただけであなた方の問題行動がたくさん出てきます。
繁華街のゴミ捨て場でしょうか?
6羽程のお仲間でゴミあさりをされている写真がありました。
爆発が起きたのかと思うほど、ゴミが散乱しております。
子供を襲いになったという記事もありました。
子供を、しかも背後から襲ったのですね。
人間はこのような行為を「卑怯」、もしくは「卑劣」と呼び軽蔑いたします。
丹精込めた作物を守ろうと、農家の方ががんばって設置した様々な防鳥グッズをしり目に、おいしそうにつまみ食いをされている写真もあります。
この農家はきっと「%&$’(#)”!!!!」と呪いの言葉を叫ばれておられることでしょう。
以前の私ならばこのような記事を目の当たりにすれば、あなた方への憤りをさらに強めただけでしょう。
しかし今、私は理解しております。
どうして私たちがあなた方をこれほど嫌うのかを。
そして実はあなた方に敵意など全くないことも。
そもそもなぜ私たちとの関係が悪化したのでしょうか?
思うに、あなた方は「中途半端」なのです。
そのうえに「運も悪い」のです。
中途半端とは具体的に以下のようでございます。
あなた方の存在は、雀やコマドリのように可愛らしいものではなく、庭先で日常的に見かけるほど身近ではございません。
かといって鷲のように力の象徴や神聖さを感じる荘厳な存在ではありませんし、また山奥といった人間社会から離れた世界で生き、めったに目撃されることがないほど関わりが薄いわけでもございません。
あなた方の能力は、我々を見たら逃げるしかない無力な小鳥ではありませんし、かといって大型の猛禽類のように致命傷を負わせるような攻撃力があるわけでもございません。
さらにはひと睨みで人間を後ずさりさせるまでの迫力があるものでもございません。
あなた方の知能は、お食事か、お休みか、または繁殖をするかの原始的なハーレムを営むしかできないレベルではありませんし、比較的高い学習能力をお持ちで、遊びをクリエイトすることができます。
しかしながら人間と理解し合えるレベルには程遠く、時折「賢いのですね」と思わせる程の所詮は「ケモノ」レベル(あなた方は鳥ですが)でございます。
簡潔に申し上げますと;
あなた方の存在は「図々しい」
あなた方の能力は「鬱陶しい」
あなた方の知能は「小賢しい」
ということであり、恐れながらすべてネガティブでございます。
この条件にあたる生物は他にもいるのに、と、随分戸惑われておられることでしょう。
そこがあなた方の運の悪いところでございます。
私たちはあなた方の生態を昔からよく拝見しており、すでに出来上がっている宜しくないイメージが、そう思わせてしまうのです。
まずあなた方は死肉をお漁りなりますね?
昆虫や木の実であれば、お食事中の姿をお見かけしても人間はあまり嫌悪感を抱きません。
あなた方もこれらが好物であることは存じております。
しかしそれでも死肉をお漁りになられるということは強烈に悪いイメージを与えてしまうのです。
それどころかあなた方は生きたハトを襲ってお召し上がりになったそうですね。
私たちの世界では、そのような悪い情報はすぐネットに乗って周知のものとなってしまうのです。
またあなた方のその真黒な姿もいただけません。
私たちが黒からどんなイメージを連想するかご存知でしょうか?
「暗黒」「恐怖」「絶望」「死」「悪」
などなどネガティブなイメージが多いのです、と、思いきや、
「非凡」「神秘」「特別」
といったイメージもございます。
高級品(すなわち非凡な品)に黒を使用することが少なからずあるのも、実はその為でございます。
あなた方は赤青緑の三色のほかに紫外線も可視光だそうですから色にはお詳しいことでございましょう。
世に色の種類は何百とあれど”白”と”黒”は他の色よりも特に”非凡””神秘””特別”を強くイメージさせるのですが、白は黒と反対で
「光」「安心」「希望」「生」「善」
などなどポジティブなイメージを持っております。
もしもあなた方が白だったら・・・。
そう思うと残念でなりません。
この際だから申し上げます。
あなた方のその声です。
なぜなのでしょうか聞こえてくるとよい気分がいたしません。
あなた方が大勢でお鳴きになられると、何やら良くないことが起こるのではないかと不安すら覚えます。
多分人間には聞こえて心地よい音域や波長というものがあり、あなた方の声は明らかにそれから外れておられるようです。
もしも、コンプレックスに思われておられましたらお詫びいたします。
実際、私たちの生活であなた方は度々よくない存在として登場されます。
あなた方が鳴くと人が死ぬなどという迷信は、死神と同一視されておられますね。
某悪魔のお子さんが主人公の映画におかれましては、彼の手先のような役割でしたし、お墓の場面にもよくあなた方がいらっしゃいます。
某サバイバルホラーゲームにおかれましては、あなた方が群れをなし、敵意をもって人間に襲い掛かっておいででした。
想像していただけますか?
何かお気に召さない者たちがあなた方の生活圏に入ってきたとします。
しかし命はもちろん、生活が脅かされる程の脅威は全くございません。
しかしながら、ちらちらと視界に入り、全く無視して生活を営むことはもうできません。
いかがでしょうか?
とてつもなくイラだちませんでしょうか?
私たちにとってのあなた方がそれにあたるのです。
・・・お詫びなのか、丁寧な言葉でダメ出しをしているのか分からなくなってきたので、そろそろ地に戻って本題にします。
まず君たちは決してわざわざ我々に嫌がらせをしに来ている訳ではない。
ましてや挑戦している訳ではないこともよくわかった。
生物として住みやすい環境を目指した結果が現状であり、皮肉にもその環境を作り出しているのは、君たちを疎ましく思っている我々人間だったのだ。
何はさておき、まず食料だ。
君たちがゴミ捨て場に多いことを知っていたのに気付かなかったのは不覚だ。
我々も食べていく必要があるので生ごみを無くすことは不可能だ。
しかし君たちに供給できないように工夫をすることは不可能ではない。
その工夫の一つとして防鳥ネットがある。
実際、君たちにこれを突破することなどできなかったのだ。
我々の誰かがしっかりと覆い被せていないから、侵入することができただけのことである。
ネットがないエリアもあるし、指定日を守らない輩がいるせいで、お食事にありつけるチャンスをこちらから提供していたのだ。
食料があるうえに、さらに君たちには住みやすい条件がそれっていることも見逃せない。
我々は生活が便利になるように人工的にどんどん環境を変えていくのに、なぜか自然を身近に感じていたいのだ。
「地球にやさしい」だとか「緑あふれる街」という嘘くさいスローガンのもとに、それなりに背の高い木々があり、営巣には困らない。
針金ハンガーも君たちには便利な巣作りのアイテムだ。
もうひとつ安心して生活を送る大切な理由として猛禽類といった天敵がいないのだ。
これだけの条件が揃っていて「居座るな」「増えるな」というのは無理な話だ。
君たちの立場に立ってみると迷惑行為の弁解もこんなところだろう。
なぜゴミを漁るかって?
そこにご馳走があるからだ。
雑食のカラスにとって、君たち飽食した人間の出す生ごみは栄養価の高いご馳走だ。
しかも森に住んでいた時と違い、探さなくとも定期的に君たちが同じ場所に持ってきてくれるのだ。
こんな便利なデリバリーサービスを利用しない手はないだろう?
なぜ子供を襲ったかって?
おいおい、ちょっと待ってくれ。
カラスは理由もなく人を襲うようなことはしないよ。
その子供は我々の巣を見つけ、わざわざ覗きに来た不届きな輩だったのだ。
子供とはいえ、我々から見れば恐ろしく大きな怪物だ。
かわいいヒナを守るため警告したが、それでも去らないので捨て身の攻撃で追い払っただけだ。
人間は怪物が自分の家をじろじろ覗きに来ても平気なのか?
愛する子供たちを守るため、命を懸けたりはしないのか?
なぜ農作物をとるかだって?
そもそも人間が育てているのか、自然に生っているのか判断がつかない。
我々にはどちらも等しく、「そこに食べ物がある」だけなのだ。
防鳥グッズも人間が勝手にその効果を期待して設置しているだけで、我々には景色の一つに過ぎない。
君たちの縄張りに我々が入ることを嫌がっているようだが、君たちが我々の縄張りに入ってきたとき一生懸命に警告をしても、ずけずけと入ってくるではないか。
カラスにだけ人間のテリトリーを理解しろというのか?
うーん、君たちの立場に立つと反論できない。
君たちは本当に運が悪い。
君たちのイメージがポジティブなものであれば、同じ「居る」にしてもここまで嫌われることなく人間社会で楽に生きて行けたかもしれないだろうに。
ただ、こう考えること自体が我々の思い上がりなのだろう。
カラスに対するイメージなど我々の一方的なものであり、君たちのことをよく知ろうとする努力などせず、勝手に忌み嫌っているだけなのだ。
この思い上がりこそ吾輩、そして君たちを疎ましく思うすべての人間が自戒すべきことだ。
本当に申し訳ない。
だが吾輩一人が理解しても事態は改善せず、君たちの存在は依然として厄介者のままだ。
さてさて、どうしたものだろうか。
草々
書き終えて筆をおくと、頭に昇っていた血が下がってきて冷静になってきた。
そして考えを巡らせると、我々人間が抱えるやっかいな問題に気づいた。
感情だ。
この一件、我々の感情が事態を面倒くさくしているのではないだろうか?
まずカラスに対するネガティブなイメージが、その後すべてを色眼鏡で見てしまい、どんな経緯であろうと必ずネガティブな結論になってしまうシナリオができあがっていないだろうか?
思い起こすと、吾輩はモロに感情に飲み込まれた経験をしていた。
ツバメが襲われた一件だ。
実はツバメを襲ったことでカラスに敵意を抱くなどお門違いも甚だしい。
そもそもツバメは吾輩に助けなど求めていない。
カラスに襲われた時だけのことをいっているのではない。
巣の修繕、食料の確保、ヒナの世話、巣立ちの時、どれをとっても自分たちの面倒は自分たちで見ている(糞の始末もしてほしかった・・・)。
「今日、餌採るのメンドーなんで、なんかくーだーさい!」なんて言われたことは一度もない。
それどころかツバメにとっては吾輩も敵で信頼関係など全くない。
その証拠に吾輩が巣の下からヒナたちに熱い視線を向けたり、妙な挙動をとると、親鳥はヒナに隠れろと警戒音をだしている。
毎年ツバメたちはやってくるのだが、吾輩が招いたわけでも、飼育しているわけでもない。
数ある民家からわが家を選んだのも、決して吾輩の人柄を見込んでのことではない。
たまたま場所が良かったとか、そんな理由だろう。
それを吾輩が勝手にほほえましく思い特別視していただけだ。
彼らが人間と身近なところに巣を作るのは、こわい人間様を盾に身を守る手段として脈々と受け継がれてきた本能であり、わが家のツバメはたまたまその目論見が外れカラスに襲われた。
カラスがツバメを襲うのもまた本能であり、ツバメがカラスに捕食されるのは自然の摂理である。
カラスに憤りを覚えることは、遥か彼方のアフリカ大陸でライオンが生きるためにインパラを襲ったことに腹を立てることと本質的に同じなのである。
・・・なのになぜだろう。
目の前でツバメが襲われているところをただ眺めているだけの人間に違和感がある。
理屈ではなく、ツバメを助けようとしない人間には大切な何かが欠落しているように感じてならない。
これが感情の面倒くさいところだ。
一言でいえば人間を人間足らしめる大切なファクター。
一方で非合理的であり誤った判断と行動をもたらす可能性のある面倒くさいファクターでもある。
「感情」が動物にもあるのかどうかはまだはっきりしていないようだ。
だが人間には確実にあり、「感情」のおかげで本当に優しい生き物になったと思う。
感情は相手の立場にたち、気持ちを想像させ共感することを可能にする。
多分、良心というものも、まずは共感することから始まり、
「これは酷い」
「こんなことは可哀想だ」
「自分ならされたくない」
と感じることから昇華したものではないだろうか。
だから感情が無ければ、相手の立場に立つことができないし、よって相手の痛みや悲しみも想像ができず良心も育たない(と思う)。
あまり詳しくないが、サイコパスと呼ばれる人たちが存在するらしい。
彼らは感情がほとんどなく良心もないので、共感や後悔といった観念も欠けているらしい。
すべての行動は一貫して自分だけの為であり、目的の為に犯罪などの反社会的行動すら抵抗がないそうだ。
吾輩ならすぐにお縄にかかってしまいそうだが、サイコパスは概して頭がよくそうならないようである。
感情がないのに喜怒哀楽の表情を作ることはできるそうだが、他人の信頼を勝ち取り、この社会でよりよく生きていくためのツールとして利用しているらしい。
なんだか人間社会にうまくなじんだ、野生動物のような印象を受ける。
感情の大切さを感じる。
一方で、今回の吾輩のように感情があまりに先行してしまい、論理が支離滅裂になってしまう落とし穴もある。
いうならば感情の暴走だ。
カラスのイメージなどイメージでしかなく、餌となるゴミ等の供給をストップさせれば理論上個体数が減っていくであろうことに気づくのはそれ程難しくなく、我々の少しばかりの注意で実行もそれほど困難だとは思えない。
だが一度感情的になってしまうと、再び道理で考えることがなかなか難しくなり乱暴な考えが頭を占めてくる。
「奴らを一網打尽にするよい罠は何だろう?」
「捕まえて羽を全部むしりとってやったらスカッとするだろうな」(おいおい
)(注1)
など、乱暴この上ないが問題の解決にはつながらない想像が頭をよぎる。
感情的になると、それ以上建設的な思考が難しくなる実例だ。
思うに感情の暴走は誰でもかなり頻繁に経験していると思う。
”怒り”という感情の暴走は、客観的に分かりやすいが、面倒なのは”愛おしい”という感情の暴走だ。
生き物つながりでペットを例にしてみる。
ペットショップに行くと、かわいらしい子犬や子猫が商品として売られている。
吾輩ですら”かわいい””欲しい”という感情が湧き上がってくるのだ。
この瞬間、頭の中では、そのペットを慈しみ、家族の一員として楽しく生活している様子を思い描いているのだ。
それは悪いことでない。
だが、よく考えてみよう。
ペットとはその気持ちとイメージだけで育ててゆけるのだろうか?
育てていけなくなると、大概のペットは捨てられる。
理由はなんであれ飼育を続けることが出来なくなったが、殺すことはできない。
だから野生となって生きろ、というのがおおよその飼い主の考えだ。
ペットを殺すのは可哀想だというのは人間らしいことだとは思うが、その後のことまでよく考えたのだろうか?
野良犬、野良猫、外来種の爆発的増加が「その後」だ。
その存在を問題視するのも人間だが、彼らを生み出したのも他ならぬ人間なのだ。
増えたカラスを疎ましく思うのと変わらない。
最近では外来種のペットも少なくないが、そんなものを憐れみから逃がしてしまったら、スポット的なトラブルや頭数の問題だけでなく、生態系に影響を及ぼしてしまう。
ちなみに吾輩の近くの川ではヌートリアの親子が出現する。
日が沈んでから突然出くわすと結構怖い。
こんな巨大なネズミをペットにしていた人が本当にいたのかと思う。
ペットは生き物だ。
おもちゃではないから必要な時だけ取り出して遊べばいいものではない。
食べるし、排泄するし、病気になるだろうし、世話が絶対的に必要である。
自分の気分が乗らなくても世話をしなければならないし、それもペットが死ぬまで続くのだ。
犬や猫はいらぬ繁殖を防ぐために対策を取る必要もあるだろう。
老後は人間の介護と同様のお世話が必要になると聞いたこともある。
ペットに必要なのは「かわいい」という感情だけでなく、むしろ時間、お金、場所など実質的なもののほうが大事だと言ってもよいかもしれない。
捨てた飼い主に贈る言葉は「捨てるな」ではなく、「初めから飼うな」である。
みんな、よく考えているって?
根性が曲がった吾輩はそうは思わない。
過去にチワワを使った消費者金融のCMが大ヒットした。
消費者金融の利用者が増えたかどうかは知らないが、チワワは爆発的に売れたそうだ。
ブームになってしまったすべてのチワワが、果たして気持ちと豊かな想像だけでなく実質的な準備の整った家庭に巡り合うことができるだろうか。
ブームは人々の感情の産物に他ならない。
スケールがぐっと大きくなるが、世界のあちこちで起こっている国際問題や紛争もカラスを嫌うがごとくの理由で、いつの間にか後戻りできない状況になってしまっているだけではないだろうか?
嫌いな国民や民族がいるとして、そもそもなぜそんなに嫌いなのか皆確固とした理由を持っているのだろうか?
多分大多数は相手のことを知ろうと努力をしないまま、ネットで集まるお手軽情報や発言力のある人の一方的な情報で感情的になっているだけではないだろうか?
こんな情報収集は無意識に自分の聞きたいネタだけを取捨選択してしまいそうで吾輩は怖い。
確かに情報収集が難しい国やエリアもあり、是非もない人たちもいる。
そのような人たちは圧倒的な影響力と権力を持つ一部の人たちの掌で踊らされている可能性が高い。
大抵その権力者の本心と掲げる大義名分は全く異なっており、権力者の都合のいいように感情に訴えかけているのではないかと思う。
そう考えると気の毒なことではある(こう感じるのもまた感情か)。
しかし日本はその気になれば、情報の偏りはかなりなくせると思う。
少なくとも本屋や図書館いくとそう感じる。
スケールがぐっと小さくなるが投資もそうだ。
吾輩もやったことがあるが、グラフのようなデータが示す方向を都合よく解釈し「そろそろこうなるはずだ」といけない売買をしてしまう。
失敗すると、取り返さねばとさらに資金をぶっこみ、熱くなりすぎて一瞬ですっからかんになったことがある。
宝くじも買ったことがある。
買わなきゃ当たる可能性は確かに無いのだが、一等の当選確率は1000万分の1だそうだ。
どちらも冷静に考えれば、ほどんどの買い手が損をすることで一部の買い手が得をする仕組みの商売だと気づくはずだ。
遊びとしては楽しめるが、本当にお金が必要なときに都合のよい期待で手を出すのは感情の成せる浅はかさだ。
ふと気づいたが、いわゆる寝たきり老人や痴呆のような症状を見せるお年寄りは、吾輩の一族にはいなかった。
感情について考えていると、思い当たる理由がある。
良い意味でひどい接し方をしたからではないだろうか。
なにしろ、吾輩の一族は、
「大変だろうから休んでいて」
「危ないから代わりにやってあげるよ」
「歩かなくても車で連れて行ってあげるよ」
というような、優しく暖かい声がけが行われている光景を見たことがない。
基本何歳であろうとも、なんでも自分でやるのが常識なのだ。
”お年寄りには優しく親切に”
世の常識であり、動物にはない、人間特有の優しい感情だ。
すばらしいと思う。
しかし果たして、なんでもかんでも負担を軽くしてあげる配慮が本当の優しさなのだろうかと強く思った。
吾輩の一族は、何歳になっても自分のことは自分でやらなければ誰もやらない。(注2)
だから何歳になろうとも頭も筋肉も使っていないと生きていけない。
その”生きるぞ”という気迫のせいか、他のお年寄りと比べると非常に生気に溢れ活力がみなぎり元気だと感じる。
こう考えてはいかがだろうか?
吾輩は骨折で数か月腕をギプスで固定したことがある。
ようやくギプスがとれたとき、やっと自由に動かせると思ったのだが、激しい痛みに襲われ、そのうえ痛みに耐えても動かせる気がしなかったのを覚えている。
長期にわたる固定で筋肉が衰え、腕も本来の機能を忘れてしまったと感じた。
例え善意からであっても、お年寄りだからと勝手に弱者にしてしまい、過剰に労り、身の回りの作業をことごとく奪ってしまうのは彼らをギプスで固定してしまうことと似てはいないだろうか?
まさに慈愛の暴走だ。
・・・そしてわが一族は究極の結果オーライだ。
そうだとすると子育てもそういうことになる。
親になったとき、誰しも肝に銘じなければならない当たり前の大前提がある。
すなわち不慮の事故や病でもない限り、親は子より先に往生するということだ。
我が子が愛しくかわいいからと、なんでもかんでも子供の都合のいいように親が勝手に先回りしていくと、はたしてその子は親がいなくなっても逞しく生きていけるのだろうか。
モンスターペアレンツという言葉を最近耳にするが、彼らは愛情が暴走している人たちではないかと思う。
感情。
生まれてから今までずっと一緒なのに気にしたこともなかった。
しかしよく考えると、いままで自分の意志だと思っていた思考や判断、行動はほんとうに100%自分のものだったのかと少々気味が悪くなる。
敵は己の内にあり(英語で言うと the enemy lies within you。・・・なんかかっこいい)とはよく言ったものだ。
感情の取扱い説明書が欲しいくらいである。
今日もゴミ出しである。
いつものようにカラス達が待っているだろう。
哀れなカラス達よ。
ただ精いっぱい生きているだけなのに、こんなに不当に嫌われることになろうとは。
吾輩はゴミ袋を所定の位置に置いた。
そして哀れなカラス達が漁りやすいように小細工を・・・なんてことは絶対にしない。
吾輩はカラス達が手出しできないように他のゴミも寄せ集めて防鳥ネットをしっかりと掛けた。
そして目立つところに張り紙をした。
「いいかげんな掛け方をしては防鳥ネットは意味を成しません。カラスがどこからもゴミ袋に近づけないように完全に覆い隠してください。彼らを来なくする唯一の方法は、餌を漁ることができないゴミ捨て場だと思い知らせることです」
今年もツバメはやってくるだろう。
もしもまた目の前で「自然の摂理」を見せつけられたら吾輩はどうするだろう。
・・・きっとカラスを追い払う。
それでいいのだ。
吾輩は感情のある人間だ。
黙ってみていることはできない。
だが、気持ちは以前と違う。
襲われたツバメを哀れに思うだろうが、決してカラスに怒りを感じたりはしない。
なぜならそれが厳しい「自然の摂理」なのだから。
カラスと人間のいい関係。
それは適切な距離をこちらから取ってあげることだ。
これはカラスだけでなく、他の動物たちとの関係にも言える。
なぜ人間がそこまでしてやらなければならないのか、と思われるだろうか?
それは我々が他の生物とは一線を画する高い知能を持ち、環境を劇的に変える能力がある"万物の霊長"様だからだ。
我々がやらねば一体誰ができるというのだ?
だから肝に銘じようではないか。
問題のある「その環境を作り出し資源をあたえているのは、人間だ、」ということを。
そして、感情に飲み込まれ暴走することのないよう意識を高めねばならない。
望ましい世界を想像することができるは「万物の霊長」様だけ。
望ましい世界を決めることができるのも「万物の霊長」様だけ。
そして望ましい世界を実現することができるのも「万物の霊長」様だけ。
そんな唯一の才能をもちながら、感情で大局を見誤っていれば、”「万物の霊長」だなんて偉そうにしてるけど口だけだね”、とカラスにバカにされてしまいそうだ。
吾輩、それは恥ずかしい事だと思うぞ?
注1:どんな理由であろうと個人の判断で勝手に野鳥を捕獲することは禁じられています。念のため。
注2:あくまで年齢と体力に見合った日常生活をいいます。
「箪笥移動させて」
「ご自分でどうぞ」
「隣町まで行きたいのだけど」
「歩いてどうぞ」
という会話が聞こえれば虐待の可能性があります。
念のため。。