貿易屋さんのまっとうなブログ
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遅ればせながらあけましておめでとうございます。

今年もよい年になりますようにと、毎年同じことを祈っています。


吾輩の一族は毎年恒例の集まりを催している。

最近、親族の集まりを面倒くさがる方々もいらっしゃるようだが、吾輩は楽しみである。

全員どちらかといえば田舎者なのだが、思考が若々しく変化を恐れず、無駄に好奇心旺盛で会うたびに新しい話題で盛り上がる。

偉そうにふんぞり反って場を仕切りたがるだけの「ニセ長老」的な人間がいないことも、お互いが気を遣わず、みんなが時を忘れて楽しめるファクターの一つだろう。

現実的に考えると、この先もずっとこのメンバーが揃うことはあり得ない。

高齢者もいるし、不慮の事故だって絶対におこらないなんて言えない。

しかし吾輩にとって、この集まりが良い年のスタートなのだ。

無理なことだと分かっていても、この先もずっとこのメンバーが揃いますようにと願ってしまう。


新年最初のゴミ出し日は大変だ。

日常的に出るゴミに加えて、にぎやかな集まりで出た大量のゴミもある。

そのうえ、年末から年始にかけてゴミ収集が一回減っている。

ご近所も似たような状況であるので、集まるゴミの量はすさまじい。


最近ゴミ捨てになるとイライラする。

「奴ら」がいるからだ。

どこから来たのかはわからない。

ふと気づくとあちこちにいるようになり、数がだんだん増えてきている。

「奴ら」は吾輩がゴミを持って行くと、かなり遠くからゴミ袋に熱い視線を向けている。

気味が悪いが「奴ら」は決して我々の手の届くところにいない。

無感情な黒い眼でこちらを観察し、まごまごしていると文句を言うのだ。

「かぁ~」と。


そう。

「奴ら」はカラス

最近「奴ら」は急速に勢力を拡大しているようで、実害も増えている。

まずゴミを散らかすことだ。

当然対策を取って防鳥ネットを用意しているのだが、なぜか散らかしてしまうのだ。

一体どうやってネットを突破しているのだろう。


農作物も被害が出ている。

秋にあると吾輩の大好物の柿がたくさん実るのだが、それを食べていくのだ。

2~3個失敬する、ではなく、手あたり次第につついて回るのでほとんど食べられなくなることが腹立たしい。


鳴き声も問題だ。

到底耳に心地よい声質ではなく、ボリュームも半端ない。

それが早朝の、しかも比較的近くで連呼されるのだ。

「黙れ~!」と叫んで追い払いたいが、そうすると吾輩が近所で”うるさい変なおじさん”となってしまうのでできない。


吾輩は経験がないが、カラスに絡まれたという人の話も聞いた。

奇声をあげながら襲い掛かってきたそうだ。

襲われた方はさぞ恐ろしかったことでしょう。

これは傷害事件だ。


吾輩にはカラスに特別敵意を持つきっかけとなった腹立たしい過去がある。

わが家の玄関にはツバメの巣があり、毎年3月末くらいにやってくるカップルを暖かく迎えているのだ。

忙しく巣を修繕し始め、しばらくすると顔は見えずともヒナの小さな鳴き声が微かに聞こえてくる。

そのうち5-6羽の幼くけだるそうなヒナの顔が見えるようになり、親鳥が餌を持って来ると火がついたように泣き喚き餌をねだるのだ。

その幼い顔も2-3週間もすると大人の顔になってきて、飛行の練習を始めたかと思うといつの間にか巣立ってゆくのだ。

糞害など気にならないほど(実際はすさまじいので対策を取っています)、すべてが可愛らしいのだ。


ところが昨年の5月、玄関が何やら騒がしい日があった。

なんだろうとドアを開けてみると、なんとカラスがヒナたちを襲っているではないか!

吾輩の突然の登場に慌てたカラスは逃げたのだが、時すでに遅かった。

大きなカラスに小さなヒナ鳥など逃げるという抵抗すらできず、親鳥も騒ぐだけでなす術などなかったのだ。

残されたのは辛酸極まりない惨劇だけ。

激しい怒りが湧いたことを今でも覚えている。

どうでもいいことだが、カラスは逃げる際に駐車してある愛車MOVEにぶつかり排泄もしていったのだ。

糞ぐらい、普段なら笑って済ませられる(かどうかはわからない)が、この時は怒りの炎にさらに油をそそいだものだった。


おのれ、カラスども、もう許せん!


その真っ黒い容貌と不快な鳴き声で、近くにいるだけで気味が悪いのに、さまざま実害を出している以上なんとかせねばならん!

そうと決まれば基本中の基本”彼を知り己を知れば百戦危うからず”からスタートだ。

吾輩は、もっとカラスのことを知らねばならぬ。


おお、なんだこの本は!

これこそ吾輩が探していた本に間違いない!

吾輩は一冊の本を手にレジへ直行した。




「カラスの教科書」

"街には街の「生態系のバランス」がある。

しかも、その環境を作り出し資源をあたえているのは、人間だ、という点が皮肉だ。"

                            松原 始


おお、なんだこの本は!

これは吾輩が探していたものとは断じて違う!

カラスへの怒りの炎がどんどん小さくなってゆくではないか!


・・・ダメだ。

カラスが「良い」「悪い」ではないのだ。

問題は吾輩、そして人間側にあるのだ。


済まぬな、カラスよ。

せめて詫び状をしたためることにしよう。


前略

カラス殿


私と、いや、人間とあなた方との関係が悪化していったいどれくらいの年月が流れましたでしょうか。

今や、少しWEBを検索しただけであなた方の問題行動がたくさん出てきます。


繁華街のゴミ捨て場でしょうか?

6羽程のお仲間でゴミあさりをされている写真がありました。

爆発が起きたのかと思うほど、ゴミが散乱しております。


子供を襲いになったという記事もありました。

子供を、しかも背後から襲ったのですね。

人間はこのような行為を「卑怯」、もしくは「卑劣」と呼び軽蔑いたします。


丹精込めた作物を守ろうと、農家の方ががんばって設置した様々な防鳥グッズをしり目に、おいしそうにつまみ食いをされている写真もあります。

この農家はきっと「%&$’(#)”!!!!」と呪いの言葉を叫ばれておられることでしょう。


以前の私ならばこのような記事を目の当たりにすれば、あなた方への憤りをさらに強めただけでしょう。

しかし今、私は理解しております。

どうして私たちがあなた方をこれほど嫌うのかを。

そして実はあなた方に敵意など全くないことも。


そもそもなぜ私たちとの関係が悪化したのでしょうか?

思うに、あなた方は「中途半端」なのです。

そのうえに「運も悪い」のです。


中途半端とは具体的に以下のようでございます。


あなた方の存在は、雀やコマドリのように可愛らしいものではなく、庭先で日常的に見かけるほど身近ではございません。

かといって鷲のように力の象徴や神聖さを感じる荘厳な存在ではありませんし、また山奥といった人間社会から離れた世界で生き、めったに目撃されることがないほど関わりが薄いわけでもございません。


あなた方の能力は、我々を見たら逃げるしかない無力な小鳥ではありませんし、かといって大型の猛禽類のように致命傷を負わせるような攻撃力があるわけでもございません。

さらにはひと睨みで人間を後ずさりさせるまでの迫力があるものでもございません。


あなた方の知能は、お食事か、お休みか、または繁殖をするかの原始的なハーレムを営むしかできないレベルではありませんし、比較的高い学習能力をお持ちで、遊びをクリエイトすることができます。

しかしながら人間と理解し合えるレベルには程遠く、時折「賢いのですね」と思わせる程の所詮は「ケモノ」レベル(あなた方は鳥ですが)でございます。


簡潔に申し上げますと;

あなた方の存在は「図々しい

あなた方の能力は「鬱陶しい

あなた方の知能は「小賢しい

ということであり、恐れながらすべてネガティブでございます。


この条件にあたる生物は他にもいるのに、と、随分戸惑われておられることでしょう。

そこがあなた方の運の悪いところでございます。

私たちはあなた方の生態を昔からよく拝見しており、すでに出来上がっている宜しくないイメージが、そう思わせてしまうのです。


まずあなた方は死肉をお漁りなりますね?

昆虫や木の実であれば、お食事中の姿をお見かけしても人間はあまり嫌悪感を抱きません。

あなた方もこれらが好物であることは存じております。

しかしそれでも死肉をお漁りになられるということは強烈に悪いイメージを与えてしまうのです。

それどころかあなた方は生きたハトを襲ってお召し上がりになったそうですね。

私たちの世界では、そのような悪い情報はすぐネットに乗って周知のものとなってしまうのです。


またあなた方のその真黒な姿もいただけません。

私たちが黒からどんなイメージを連想するかご存知でしょうか?

「暗黒」「恐怖」「絶望」「死」「悪」

などなどネガティブなイメージが多いのです、と、思いきや、

「非凡」「神秘」「特別」

といったイメージもございます。

高級品(すなわち非凡な品)に黒を使用することが少なからずあるのも、実はその為でございます。

あなた方は赤青緑の三色のほかに紫外線も可視光だそうですから色にはお詳しいことでございましょう。

世に色の種類は何百とあれど”白”と”黒”は他の色よりも特に”非凡””神秘””特別”を強くイメージさせるのですが、白は黒と反対で

「光」「安心」「希望」「生」「善」

などなどポジティブなイメージを持っております。


もしもあなた方が白だったら・・・。

そう思うと残念でなりません。


この際だから申し上げます。

あなた方のそのです。

なぜなのでしょうか聞こえてくるとよい気分がいたしません。

あなた方が大勢でお鳴きになられると、何やら良くないことが起こるのではないかと不安すら覚えます。

多分人間には聞こえて心地よい音域や波長というものがあり、あなた方の声は明らかにそれから外れておられるようです。

もしも、コンプレックスに思われておられましたらお詫びいたします。


実際、私たちの生活であなた方は度々よくない存在として登場されます。

あなた方が鳴くと人が死ぬなどという迷信は、死神と同一視されておられますね。

某悪魔のお子さんが主人公の映画におかれましては、彼の手先のような役割でしたし、お墓の場面にもよくあなた方がいらっしゃいます。

某サバイバルホラーゲームにおかれましては、あなた方が群れをなし、敵意をもって人間に襲い掛かっておいででした。


想像していただけますか?

何かお気に召さない者たちがあなた方の生活圏に入ってきたとします。

しかし命はもちろん、生活が脅かされる程の脅威は全くございません。

しかしながら、ちらちらと視界に入り、全く無視して生活を営むことはもうできません。

いかがでしょうか?

とてつもなくイラだちませんでしょうか?

私たちにとってのあなた方がそれにあたるのです。


・・・お詫びなのか、丁寧な言葉でダメ出しをしているのか分からなくなってきたので、そろそろ地に戻って本題にします。


まず君たちは決してわざわざ我々に嫌がらせをしに来ている訳ではない。

ましてや挑戦している訳ではないこともよくわかった。

生物として住みやすい環境を目指した結果が現状であり、皮肉にもその環境を作り出しているのは、君たちを疎ましく思っている我々人間だったのだ。


何はさておき、まず食料だ。

君たちがゴミ捨て場に多いことを知っていたのに気付かなかったのは不覚だ。

我々も食べていく必要があるので生ごみを無くすことは不可能だ。

しかし君たちに供給できないように工夫をすることは不可能ではない。

その工夫の一つとして防鳥ネットがある。

実際、君たちにこれを突破することなどできなかったのだ。

我々の誰かがしっかりと覆い被せていないから、侵入することができただけのことである。

ネットがないエリアもあるし、指定日を守らない輩がいるせいで、お食事にありつけるチャンスをこちらから提供していたのだ。


食料があるうえに、さらに君たちには住みやすい条件がそれっていることも見逃せない。

我々は生活が便利になるように人工的にどんどん環境を変えていくのに、なぜか自然を身近に感じていたいのだ。

地球にやさしい」だとか「緑あふれる街」という嘘くさいスローガンのもとに、それなりに背の高い木々があり、営巣には困らない。

針金ハンガーも君たちには便利な巣作りのアイテムだ。

もうひとつ安心して生活を送る大切な理由として猛禽類といった天敵がいないのだ。

これだけの条件が揃っていて「居座るな」「増えるな」というのは無理な話だ。


君たちの立場に立ってみると迷惑行為の弁解もこんなところだろう。


なぜゴミを漁るかって?

そこにご馳走があるからだ。

雑食のカラスにとって、君たち飽食した人間の出す生ごみは栄養価の高いご馳走だ。

しかも森に住んでいた時と違い、探さなくとも定期的に君たちが同じ場所に持ってきてくれるのだ。

こんな便利なデリバリーサービスを利用しない手はないだろう?


なぜ子供を襲ったかって?

おいおい、ちょっと待ってくれ。

カラスは理由もなく人を襲うようなことはしないよ。

その子供は我々の巣を見つけ、わざわざ覗きに来た不届きな輩だったのだ。

子供とはいえ、我々から見れば恐ろしく大きな怪物だ。

かわいいヒナを守るため警告したが、それでも去らないので捨て身の攻撃で追い払っただけだ。

人間は怪物が自分の家をじろじろ覗きに来ても平気なのか?

愛する子供たちを守るため、命を懸けたりはしないのか?


なぜ農作物をとるかだって?

そもそも人間が育てているのか、自然に生っているのか判断がつかない。

我々にはどちらも等しく、「そこに食べ物がある」だけなのだ。

防鳥グッズも人間が勝手にその効果を期待して設置しているだけで、我々には景色の一つに過ぎない。

君たちの縄張りに我々が入ることを嫌がっているようだが、君たちが我々の縄張りに入ってきたとき一生懸命に警告をしても、ずけずけと入ってくるではないか。

カラスにだけ人間のテリトリーを理解しろというのか?


うーん、君たちの立場に立つと反論できない。


君たちは本当に運が悪い。

君たちのイメージがポジティブなものであれば、同じ「居る」にしてもここまで嫌われることなく人間社会で楽に生きて行けたかもしれないだろうに。

ただ、こう考えること自体が我々の思い上がりなのだろう。

カラスに対するイメージなど我々の一方的なものであり、君たちのことをよく知ろうとする努力などせず、勝手に忌み嫌っているだけなのだ

この思い上がりこそ吾輩、そして君たちを疎ましく思うすべての人間が自戒すべきことだ。


本当に申し訳ない。

だが吾輩一人が理解しても事態は改善せず、君たちの存在は依然として厄介者のままだ。

さてさて、どうしたものだろうか。


                                        草々


書き終えて筆をおくと、頭に昇っていた血が下がってきて冷静になってきた。

そして考えを巡らせると、我々人間が抱えるやっかいな問題に気づいた。


感情だ。


この一件、我々の感情が事態を面倒くさくしているのではないだろうか?

まずカラスに対するネガティブなイメージが、その後すべてを色眼鏡で見てしまい、どんな経緯であろうと必ずネガティブな結論になってしまうシナリオができあがっていないだろうか?


思い起こすと、吾輩はモロに感情に飲み込まれた経験をしていた。

ツバメが襲われた一件だ。

実はツバメを襲ったことでカラスに敵意を抱くなどお門違いも甚だしい


そもそもツバメは吾輩に助けなど求めていない。

カラスに襲われた時だけのことをいっているのではない。

巣の修繕、食料の確保、ヒナの世話、巣立ちの時、どれをとっても自分たちの面倒は自分たちで見ている(糞の始末もしてほしかった・・・ガーン)。

「今日、餌採るのメンドーなんで、なんかくーだーさい!」なんて言われたことは一度もない。

それどころかツバメにとっては吾輩も敵で信頼関係など全くない。

その証拠に吾輩が巣の下からヒナたちに熱い視線を向けたり、妙な挙動をとると、親鳥はヒナに隠れろと警戒音をだしている。


毎年ツバメたちはやってくるのだが、吾輩が招いたわけでも、飼育しているわけでもない。

数ある民家からわが家を選んだのも、決して吾輩の人柄を見込んでのことではない。

たまたま場所が良かったとか、そんな理由だろう。

それを吾輩が勝手にほほえましく思い特別視していただけだ

彼らが人間と身近なところに巣を作るのは、こわい人間様を盾に身を守る手段として脈々と受け継がれてきた本能であり、わが家のツバメはたまたまその目論見が外れカラスに襲われた。

カラスがツバメを襲うのもまた本能であり、ツバメがカラスに捕食されるのは自然の摂理である

カラスに憤りを覚えることは、遥か彼方のアフリカ大陸でライオンが生きるためにインパラを襲ったことに腹を立てることと本質的に同じなのである。


・・・なのになぜだろう。

目の前でツバメが襲われているところをただ眺めているだけの人間に違和感がある。

理屈ではなく、ツバメを助けようとしない人間には大切な何かが欠落しているように感じてならない。


これが感情の面倒くさいところだ。

一言でいえば人間を人間足らしめる大切なファクター。

一方で非合理的であり誤った判断と行動をもたらす可能性のある面倒くさいファクターでもある。


「感情」が動物にもあるのかどうかはまだはっきりしていないようだ。

だが人間には確実にあり、「感情」のおかげで本当に優しい生き物になったと思う。

感情は相手の立場にたち、気持ちを想像させ共感することを可能にする。

多分、良心というものも、まずは共感することから始まり、

「これは酷い」

「こんなことは可哀想だ」

「自分ならされたくない」

と感じることから昇華したものではないだろうか。


だから感情が無ければ、相手の立場に立つことができないし、よって相手の痛みや悲しみも想像ができず良心も育たない(と思う)。


あまり詳しくないが、サイコパスと呼ばれる人たちが存在するらしい。

彼らは感情がほとんどなく良心もないので、共感や後悔といった観念も欠けているらしい。

すべての行動は一貫して自分だけの為であり、目的の為に犯罪などの反社会的行動すら抵抗がないそうだ。

吾輩ならすぐにお縄にかかってしまいそうだが、サイコパスは概して頭がよくそうならないようである。

感情がないのに喜怒哀楽の表情を作ることはできるそうだが、他人の信頼を勝ち取り、この社会でよりよく生きていくためのツールとして利用しているらしい。

なんだか人間社会にうまくなじんだ、野生動物のような印象を受ける。

感情の大切さを感じる。


一方で、今回の吾輩のように感情があまりに先行してしまい、論理が支離滅裂になってしまう落とし穴もある。

いうならば感情の暴走だ。


カラスのイメージなどイメージでしかなく、餌となるゴミ等の供給をストップさせれば理論上個体数が減っていくであろうことに気づくのはそれ程難しくなく、我々の少しばかりの注意で実行もそれほど困難だとは思えない。

だが一度感情的になってしまうと、再び道理で考えることがなかなか難しくなり乱暴な考えが頭を占めてくる。

「奴らを一網打尽にするよい罠は何だろう?」

「捕まえて羽を全部むしりとってやったらスカッとするだろうな」(パーおいおいにひひ)(注1)

など、乱暴この上ないが問題の解決にはつながらない想像が頭をよぎる。

感情的になると、それ以上建設的な思考が難しくなる実例だ。


思うに感情の暴走は誰でもかなり頻繁に経験していると思う。

”怒り”という感情の暴走は、客観的に分かりやすいが、面倒なのは”愛おしい”という感情の暴走だ。


生き物つながりでペットを例にしてみる。


ペットショップに行くと、かわいらしい子犬や子猫が商品として売られている。

吾輩ですら”かわいい””欲しい”という感情が湧き上がってくるのだ。

この瞬間、頭の中では、そのペットを慈しみ、家族の一員として楽しく生活している様子を思い描いているのだ。

それは悪いことでない。

だが、よく考えてみよう。

ペットとはその気持ちとイメージだけで育ててゆけるのだろうか?


育てていけなくなると、大概のペットは捨てられる。

理由はなんであれ飼育を続けることが出来なくなったが、殺すことはできない。

だから野生となって生きろ、というのがおおよその飼い主の考えだ。

ペットを殺すのは可哀想だというのは人間らしいことだとは思うが、その後のことまでよく考えたのだろうか?


野良犬、野良猫、外来種の爆発的増加が「その後」だ。

その存在を問題視するのも人間だが、彼らを生み出したのも他ならぬ人間なのだ。

増えたカラスを疎ましく思うのと変わらない。

最近では外来種のペットも少なくないが、そんなものを憐れみから逃がしてしまったら、スポット的なトラブルや頭数の問題だけでなく、生態系に影響を及ぼしてしまう。

ちなみに吾輩の近くの川ではヌートリアの親子が出現する。

日が沈んでから突然出くわすと結構怖い。

こんな巨大なネズミをペットにしていた人が本当にいたのかと思う。


ペットは生き物だ。

おもちゃではないから必要な時だけ取り出して遊べばいいものではない。

食べるし、排泄するし、病気になるだろうし、世話が絶対的に必要である。

自分の気分が乗らなくても世話をしなければならないし、それもペットが死ぬまで続くのだ。

犬や猫はいらぬ繁殖を防ぐために対策を取る必要もあるだろう。

老後は人間の介護と同様のお世話が必要になると聞いたこともある。

ペットに必要なのは「かわいい」という感情だけでなく、むしろ時間、お金、場所など実質的なもののほうが大事だと言ってもよいかもしれない。

捨てた飼い主に贈る言葉は「捨てるな」ではなく、「初めから飼うな」である。


みんな、よく考えているって?

根性が曲がった吾輩はそうは思わない。


過去にチワワを使った消費者金融のCMが大ヒットした。

消費者金融の利用者が増えたかどうかは知らないが、チワワは爆発的に売れたそうだ。

ブームになってしまったすべてのチワワが、果たして気持ちと豊かな想像だけでなく実質的な準備の整った家庭に巡り合うことができるだろうか。

ブームは人々の感情の産物に他ならない。


スケールがぐっと大きくなるが、世界のあちこちで起こっている国際問題や紛争もカラスを嫌うがごとくの理由で、いつの間にか後戻りできない状況になってしまっているだけではないだろうか?

嫌いな国民や民族がいるとして、そもそもなぜそんなに嫌いなのか皆確固とした理由を持っているのだろうか?

多分大多数は相手のことを知ろうと努力をしないまま、ネットで集まるお手軽情報や発言力のある人の一方的な情報で感情的になっているだけではないだろうか?

こんな情報収集は無意識に自分の聞きたいネタだけを取捨選択してしまいそうで吾輩は怖い。

確かに情報収集が難しい国やエリアもあり、是非もない人たちもいる。

そのような人たちは圧倒的な影響力と権力を持つ一部の人たちの掌で踊らされている可能性が高い。

大抵その権力者の本心と掲げる大義名分は全く異なっており、権力者の都合のいいように感情に訴えかけているのではないかと思う。

そう考えると気の毒なことではある(こう感じるのもまた感情か)。

しかし日本はその気になれば、情報の偏りはかなりなくせると思う。

少なくとも本屋や図書館いくとそう感じる。


スケールがぐっと小さくなるが投資もそうだ。

吾輩もやったことがあるが、グラフのようなデータが示す方向を都合よく解釈し「そろそろこうなるはずだ」といけない売買をしてしまう。

失敗すると、取り返さねばとさらに資金をぶっこみ、熱くなりすぎて一瞬ですっからかんになったことがある。

宝くじも買ったことがある。

買わなきゃ当たる可能性は確かに無いのだが、一等の当選確率は1000万分の1だそうだ。

どちらも冷静に考えれば、ほどんどの買い手が損をすることで一部の買い手が得をする仕組みの商売だと気づくはずだ。

遊びとしては楽しめるが、本当にお金が必要なときに都合のよい期待で手を出すのは感情の成せる浅はかさだ。


ふと気づいたが、いわゆる寝たきり老人や痴呆のような症状を見せるお年寄りは、吾輩の一族にはいなかった。

感情について考えていると、思い当たる理由がある。

良い意味でひどい接し方をしたからではないだろうか。

なにしろ、吾輩の一族は、

「大変だろうから休んでいて」

「危ないから代わりにやってあげるよ」

「歩かなくても車で連れて行ってあげるよ」

というような、優しく暖かい声がけが行われている光景を見たことがない叫び

基本何歳であろうとも、なんでも自分でやるのが常識なのだ。


”お年寄りには優しく親切に”

世の常識であり、動物にはない、人間特有の優しい感情だ。

すばらしいと思う。

しかし果たして、なんでもかんでも負担を軽くしてあげる配慮が本当の優しさなのだろうかと強く思った。

吾輩の一族は、何歳になっても自分のことは自分でやらなければ誰もやらない。(注2)

だから何歳になろうとも頭も筋肉も使っていないと生きていけない。

その”生きるぞ”という気迫のせいか、他のお年寄りと比べると非常に生気に溢れ活力がみなぎり元気だと感じる。


こう考えてはいかがだろうか?

吾輩は骨折で数か月腕をギプスで固定したことがある。

ようやくギプスがとれたとき、やっと自由に動かせると思ったのだが、激しい痛みに襲われ、そのうえ痛みに耐えても動かせる気がしなかったのを覚えている。

長期にわたる固定で筋肉が衰え、腕も本来の機能を忘れてしまったと感じた。


例え善意からであっても、お年寄りだからと勝手に弱者にしてしまい、過剰に労り、身の回りの作業をことごとく奪ってしまうのは彼らをギプスで固定してしまうことと似てはいないだろうか?

まさに慈愛の暴走だ。

・・・そしてわが一族は究極の結果オーライだ。


そうだとすると子育てもそういうことになる。

親になったとき、誰しも肝に銘じなければならない当たり前の大前提がある。

すなわち不慮の事故や病でもない限り、親は子より先に往生するということだ。

我が子が愛しくかわいいからと、なんでもかんでも子供の都合のいいように親が勝手に先回りしていくと、はたしてその子は親がいなくなっても逞しく生きていけるのだろうか。

モンスターペアレンツという言葉を最近耳にするが、彼らは愛情が暴走している人たちではないかと思う。



感情


生まれてから今までずっと一緒なのに気にしたこともなかった。

しかしよく考えると、いままで自分の意志だと思っていた思考や判断、行動はほんとうに100%自分のものだったのかと少々気味が悪くなる。

敵は己の内にあり(英語で言うと the enemy lies within you。・・・なんかかっこいい)とはよく言ったものだ。

感情の取扱い説明書が欲しいくらいである。



今日もゴミ出しである。

いつものようにカラス達が待っているだろう。


哀れなカラス達よ。

ただ精いっぱい生きているだけなのに、こんなに不当に嫌われることになろうとは。


吾輩はゴミ袋を所定の位置に置いた。

そして哀れなカラス達が漁りやすいように小細工を・・・なんてことは絶対にしない。

吾輩はカラス達が手出しできないように他のゴミも寄せ集めて防鳥ネットをしっかりと掛けた。

そして目立つところに張り紙をした。


「いいかげんな掛け方をしては防鳥ネットは意味を成しません。カラスがどこからもゴミ袋に近づけないように完全に覆い隠してください。彼らを来なくする唯一の方法は、餌を漁ることができないゴミ捨て場だと思い知らせることです


今年もツバメはやってくるだろう。

もしもまた目の前で「自然の摂理」を見せつけられたら吾輩はどうするだろう。

・・・きっとカラスを追い払う。

それでいいのだ。

吾輩は感情のある人間だ。

黙ってみていることはできない。

だが、気持ちは以前と違う。

襲われたツバメを哀れに思うだろうが、決してカラスに怒りを感じたりはしない。

なぜならそれが厳しい「自然の摂理」なのだから。


カラスと人間のいい関係。

それは適切な距離をこちらから取ってあげることだ。

これはカラスだけでなく、他の動物たちとの関係にも言える。


なぜ人間がそこまでしてやらなければならないのか、と思われるだろうか?

それは我々が他の生物とは一線を画する高い知能を持ち、環境を劇的に変える能力がある"万物の霊長"様だからだ。

我々がやらねば一体誰ができるというのだ?

だから肝に銘じようではないか。

問題のある「その環境を作り出し資源をあたえているのは、人間だ、」ということを。

そして、感情に飲み込まれ暴走することのないよう意識を高めねばならない。


望ましい世界を想像することができるは「万物の霊長」様だけ。

望ましい世界を決めることができるのも「万物の霊長」様だけ。

そして望ましい世界を実現することができるのも「万物の霊長」様だけ。

そんな唯一の才能をもちながら、感情で大局を見誤っていれば、”「万物の霊長」だなんて偉そうにしてるけど口だけだね”、とカラスにバカにされてしまいそうだ。


吾輩、それは恥ずかしい事だと思うぞ?



注1:どんな理由であろうと個人の判断で勝手に野鳥を捕獲することは禁じられています。念のため。


注2:あくまで年齢と体力に見合った日常生活をいいます。

「箪笥移動させて」

 「ご自分でどうぞ」

「隣町まで行きたいのだけど」

 「歩いてどうぞ」

という会話が聞こえれば虐待の可能性があります。

念のため。。

久しぶりのブログである。
ここのところとても忙しかった。
ホームページを立ち上げたおかげでいろいろなお問い合わせをいただきました。
無論、すべてのお客様のご要望を満たすなどという神がかった対応はできません。
そんなときは力不足を実感します。
が、同時に世の中にはまだまだいろいろなニーズがあるのだ、経済がどうあろうと伸びしろはあるのだ、と前向きに謙虚に受け止めています。
お問い合わせいただいたニコニコ皆様に感謝ニコニコです。


さて先日横領容疑の男が海外で御用となり、帰国そうそう司法の手に委ねられることになる、というニュースがありました。
メディアの情報を鵜呑みにはできませんが、相当派手な生活をしていたというのは事実なのであろう。
この人はどんな人物だったのだろうと考えたとき、吾輩はなぜだか断言してしまう。
そんなお金を手にしなければ、普通の生活を送っていただろうに、と。


お金は人を変える。
いや、必要なものだから、「身の丈に合わないお金」は人を変える、というべきか。
では「身の丈にあったお金」とはいくらなのだろうか?


考えてみれば不思議なものだ。
「身の丈に合わないお金」の危険性をうすうす感じながらも、お金は多い方がいいと信じている自分を否定できない。
お金はモノやサービスと交換することで初めて効力を発揮する、言うならばチケットだ。
「北○の拳」の舞台のような荒廃した物資もマーケットもない世の中であれば、第一話でワイルドなお兄さんが叫んでいるように、札束などちり紙としても使えない「役立たず」である。
好きなアーティストのライブを見るには自分の分があれば十分なのだ。
なのにお金というチケットは、自分に必要なモノがそもそも何で、どれだけ必要かも考えることなくとにかく多い方がよいと決めつけてしまう。
サラリーマンの平均生涯収入が3億円(税込)に満たないようなご時世で、今年の年末ジャンボは最高7億円だそうだ。
人生をもう一回経験できるくらいのそのお金を求める人たちは、どんな使い道をもっているのだろうか?


そんな時、この本を手に取った。



貿易屋さんのまっとうなブログ-wagako

「わが子に「お金」をどう教えるか」

"お金ありきの幸せではなく、幸せありきのお金である"

                            篠上芳光


ごもっともである。
わが子がいなくても、自分自身の為に学べる一冊である。


我々はお金に踊らされすぎである。
お金は必要だから仕方ない、は、論点ではない。
お金に我々の品格が貶められていることに気づかなければならないのだ。


他人が手に入れたモノをすぐに金額換算して高ければ羨み、安ければ鼻で笑う人。
自分の舌で確かめることもなく、高い料理だからおいしい、安い料理だから並と考えしまう人(ホテルの食品偽装も最近話題でした)。
ライフスタイルや好みも考えず高いほうがよいと選んでしまう人。


皆、他人が付けた金額を物差しにして価値を判断しているのだ。

いうならば価値判断を他人に任せているということであり、モノの本質が見えておらず、お金に聞かないと判断ができない人たちだ。


なんと薄っぺらなつまらない人間だシラービックリマーク
彼らのようには絶対なりたくないガーン

・・・ところが吾輩も含めて皆、知らぬまに金額を物差しにしているのだ。
しかもかなりの頻度で。


大切なのはお金など手段であって目的ではないと気付くことだ。
「幸せ」という抽象的なものを出来る限り具体的なイメージにすること。
すると「幸せ」を実現するために必要なモノやサービスが何なのか見えてくる。
そしてようやくお金がいくら必要か、という話になる。
その「幸せ」とは何か、が難しい所ではあるが、まさに「幸せありきのお金」なのだ。


お金がこれだけあるから、何を買えば幸せになるだろうか、という考えは危険だ。
買うものはどんどんグレードアップしてゆくだろうし、自分に集まる薄っぺらなつまらない人間の羨望の眼差しこそが幸せだと考え、それをもっと増やそうと考えてしまうだろう。
そうなると買うためにどんどん稼がなければならなくなる。
稼いでは使い、稼いでは使い、しかし心は満たされてゆくのだろうか?


「お金というものは、塩水と同じようなものだ。塩水は飲めば飲むだけのどが渇き、いくら飲んでもつぎつぎとほしくなる。お金もまったく同じもの。いくらお金があっても、またほしくなってしまうものだ。」(本文より引用)


こんなお金に振り回される人生、吾輩は御免である。
一個人の人生を考える上で、お金に縛られない価値観を持つことが「幸せ」の一つのファクターである、ということは共感できる。
望んでも手に入るはずのない大金を夢見るのであれば、今あるお金でどう幸せに暮らすかという発想の転換は必要になると思う。


しかしである!!


吾輩は貿易屋さんとして利益を生み出さねばならないし、生み続けなければならない。
このように達観して「お金などこれで十分だ」と考えることは、収入がなくなる引退後はともかく現役の吾輩は受け入れられないし、受け入れてはいけない。
それは企業の活動目的と矛盾をする。


そこで、自分の中で整合性をつけた吾輩流、わが子に「お金」をどう教えるか、をご紹介したい。




いきなり全く関係ない話をするようであるが、関係あるのでお付き合い願いたい。


ここに丸太が何十本もある。
結構太い。


あなたは吾輩に指示してこれらをすべて半分に切らせなければならない。


用意された道具は二種類ある。
のこぎりとチェーンソーだ。
どちらを使わせてもよい。


念のため説明するが、のこぎりとはギザギザのついた金属の薄い板に柄を付けた工具で、ギザギザを丸太にあてがってギコギコと手で引いて切断するのある。
一方チェーンソーとはギザギザのついたチェーンを原動機で高速回転させ効率的に丸太を切断する、いわゆる電動ノコギリである。


さあ、あなたは吾輩にどちらを使わせてくれるだろうかはてなマーク


吾輩に嫌がらせをしない限りチェーンソーを選んでくれるのではないだろうか?
どちらも切断するための道具として同じカテゴリーであるが、その目的を果たす為の能力、すなわちスペックには雲泥の差がある。
のこぎりは非効率だ。
一本あたりにかかる時間は、のこぎりはチェーンソーの何十倍もかかるだろう。
この作業をさくっとすませるに当たり、どちらを使うべきかは明白である。


あなたはそう判断した。
だれも間違っているとは思わないだろう。
あなたは吾輩にチェーンソーの優れた点と使い方を伝えそれを手渡し作業につかせようとしましたとさ。


・・・吾輩が、まだあどけない小学生であるにも関わらずである。。。


ここで、ちょっと待てパーと、思っていただければ幸いである。
実際吾輩はいい歳のおっさんでありチェーンソーも使いこなせるが、もし子供であったらあなたはチェーンソーは渡さないのではないだろうか?


当たり前なのだが、あえてそれがなぜなのか考えて欲しい。


はてなマークなぜチェーンソーが効率的に丸太を切断する素晴らしい道具であることを知っているのに、相手が子供であれば使わせないのだろうかはてなマーク


チェーンソーをよくご存じない方には理由が分からないかもしれないが、実はこれを扱うには結構な腕力と体力が必要なのだ。
到底子供が扱える道具ではないし、成人女性でもキツイと思う。
若いうちは何事も挑戦だ、という考えも否定はしない。
しかしこの挑戦は、一度失敗したら取り返しがつかない結果になる可能性が極めて高い。
チェーンソーは成人に対しても一撃で命に関わるダメージを与えることが可能な道具だ。
腕力も体力も、おまけに判断力も発展途上の小学生に、こんなものを使わせることなど論外である。


屁理屈に聞こえるかもしれないが「優れた道具」などこの世に存在しない
それを使いこなす人次第で、「優れた道具」にもなれば「劣った道具」にもなり、場合によっては「人の命を奪う道具」にも成り得るのである。
つまり道具を使うためには、使う人間にも満たさなければならないスペックがあるということだ。
それを満たしていないと取り返しのつかないことになる可能性もあるということである。



吾輩はお金というものの本質も全く同じだと考える。
お金はモノやサービスと交換する為のチケットであり、結局は道具である。
効力のほどは額をみれば一目瞭然。
1,000円より10,000円、10,000円より100,000円と数字が大きいほうが「購買力」のスペックがあがる。
そして道具である以上、使いこなせるスペックを持った人でなければ、痛い目をみるのである。


さて、ここに自由に使ってよいラブラブ!10,000,000円ラブラブ!(一千万円)があなたに手渡されたとする。
こいつはかなり高スペックなチケットだ。
街で見かけるモノは、大抵現金でポンと交換できるだろう。


さあ、あなたは怪我をしないよう上手に使いこなすことができますかはてなマーク


こう聞かれても普段お金の使い方で安全や危険など考えたこともないであろうから、ピンとこないと思われる。
まず考えなくてはならないこと、それは使う人間が何者であるかということだ。


吾輩と同じ年代の社会人ならうまく使いこなすと思われる。
なぜなら吾輩は、絶対に安全かつ、最も有効に使いこなす自信があるからだ。
用途は住宅ローンの繰り上げ返済である。
同年代であれば住宅ローンを組んでいる方は多いのではなかろうか。
借りてみてわかったが(叫びお恥ずかしい限りである叫び)、複利式ローンは恐ろしい仕組みだ。
金利と期間によるが、月々の支払だけに任せると最終的には借りた金額の倍近く支払う計算になることも珍しくない。
ところが繰り上げ返済を行うと支払期間も短縮できるし、利息金の割合もぐっと減るのだ。
もし一千万円もの繰り上げ返済を行えば、のちのちの負担は格段に軽くなる。
住宅ローンは月々の家賃の代わりということで借金の認識が薄くなりがちだが、間違いなく借金である。
だから早く返済をするべきなのだ。

これは素晴らしい使い方ではないだろうか?


いっぽう、もし大学生の吾輩だったらどうなっただろうか?


世の中いろんな学生がいるが、大学時代の吾輩はひどいものである。
学費や生活にかかわる費用のほぼすべてを親に頼っているにも関わらず、バイトで収入があるためお金のスペックはきちんと理解しており、しかも自分の都合で使うことができる。
しかし生活を支える為に稼ぐことの難しさや厳しさは当然知らないし、経験もない。
日々の生活は親に保証されているため、財布の紐はかなりゆるく、それゆえかモノを豊かさと考えがちで物欲は強い。
おまけに世間の荒波にもまれたこともないのに、世の中のことは知ってるつもりの世間知らずである。
改めて振り返ると、恥ずかしくなるような小者であった(これを自覚しているので、今は少しマシになっていると思う)。


一千万円を手にしたら、まず学業が手につかなくなりお金の使い道ばかり考えるだろう。
それもかなりくだらない使い道だ。
取り敢えず気になったモノはすぐ購入するだろうし、見栄で友達に奢ったりするだろう。
自分が働いて稼いだわけでもないその一千万円の力のせいで、まるで自分が偉くなったかのような錯覚に陥るからだ。

給料日(自分で稼いだお金ではあるが)に気が大きくなった経験はみなさんにはないだろうか?

そんな感じだ。


しばらくすると普段近づかなかったネオン街をうろつき始めると思われる。
大人の世界に入ろうとしているのだが、汗水たらして働き、苦労をしている大人の姿を知らないので、アフター5を楽しんでいる大人が「大人の世界」だと勘違いしているからだ。
中高生が大人の真似をしてタバコやお酒に手を出す感じとよく似ている。


そうすると転げ落ちるのは早い。
世間知らずのアマちゃん(ドラマではない)にネオン街は危険がいっぱいだ。
ワルい大人たちがカモとばかりに言葉巧みに近寄ってくるだろう。
大金を持っている事を知られれば、恐喝されるかもしれない。
調子に乗って、いけないクスリに手を出し始めるかもしれない。
一千万円は大金だが、驚くべきスピードで底をつきることになる。


さらに問題は、お金がなくなればそれで終わりでないということだ。
一千万円という圧倒的なお金の力を知ってしまった以上、その力がもたらした快感をリセットはできない。
カモとして付き合ってくれていたワルい大人たちは離れてゆくだろうが、大人の世界から不適格とされたように思え辛く感じるだろう。
一方恐喝者は去らず、それどころかどうにか工面してもってこいと脅すだろう。
一度上げてしまった贅沢レベルも下げられない。
ましてや、いけないクスリに手を出していたら個人の努力ではやめることは相当難しいであろう。


結局、もとの生活には戻れない。
遅れた学業を取り戻そうとは思わないだろうし、無謀にもお金をもっと稼ぐんだと、学校をやめてしまうかもしれない。
いや、ドラッグにまで手をだしていたら、まっとうな人間に戻れるかどうかも分からない。


これはもちろん想像であるが、まるで見当外れではないのではないだろうか。
最近夜の繁華街で制服の若者がうろうろしているのを見かけることがあるが、彼らは何をしてるのだろうか。
かれらが学生ではなく、コスプレが趣味のりっぱな社会人であることを願わずにはいられない。


同じ一千万円でも前者はとても有効により良い人生の為に役立てているのに、後者は人生を台無しにしてしまった。
そんな大金、初めからなければよかったのだが、おそらくそのような後悔などなく、未練たらたらであろう。
大学生の吾輩に一千万円という道具は、子供にチェーンソーを渡すようなものだったのだ。
一千万円という高スペックを使いこなすには、吾輩はスペック不足だったのだ。
悪銭身につかずと笑って済ませられるものではない。
完治不可能といってもよい大怪我を人生に負わせてしまうのだ。



さて結論である。


ここまで書くと結局、大金など持つべきでない、といっているように感じるかもしれないがそうではない


チェーンソーは使用者に体力や腕力といった、子供には努力で解決できないスペックが必要だ。
だから子供には絶対に使いこなせない。
しかしお金という道具は体力や腕力で扱うものではない。
求められるスペックはそれとは異なり、年齢で決まらないものだ
傾向は見られるだろう。
しかし、それでも絶対ではないのだ。


だから学生の吾輩であってもスペックさえ満たしていれてば使いこなせたはずなのだ。

事実、学生でも起業したり、慈善活動にお金を使っている学生はいる。

バイトであっても、お金を稼ぐことを知っているのであれば、大金を持ってしまったことが問題なのではなく、使いこなすためのスペックが十分に上がっていなかったことが問題なのだ。


ゆえに吾輩流「我が子お金をどうおしえるか」はこうである。


「お金はとても大切だ。
まっとうな方法でより多く手に入れるように努力しなければならない。
だからいつどんな高スペックの大金が手に入っても見事に使いこなせるように、日頃から自分のスペックを上げることを怠ってはならない
今、それが一番大切なことであり、自分次第で実現できるもっとも確かなことだ。」


こう考えるからこそ吾輩はまだ稼ぐ方法を知らない子供たちであってもお金の話はする。

もちろんコミュニケーションが取れる年齢であることが前提ではあるが、「まだ早い」と親が勝手に判断して、学ぶチャンスを奪うようなことはしない。

だいたい避けて通れる話であるはずがないではないか。

お金に関する情報は氾濫している。

高校生にでもなれば、要領よく隠れてバイトを始めてしまうことができなくもない(らしい?)。

こうなってからでは、遅いのだ。


しかし一方で小遣いやお年玉は決して過剰に渡さない。

足りないくらいがちょうど良いと思う。

どうしても必要なモノがあれば、話し合って親が決済をするようにする。

お金を稼ぐ経験のない者は何歳であっても、まとまったお金を使いこなすにはスペック不足なのだ。

むしろこのような機会を多く持つことは、お金について話し合う絶好のチャンスなのだ。


逆に、社会人であれば安心というわけでもない。

吾輩はむしろ危ないかも。
今はローンを抱えているから有効に使いこなせるだけだ。
それがなければ、やはりネオン街でけしからんことをする可能性が高い。
社会人であれば、必ず使いこなせるわけでもない。
冒頭で触れた横領の容疑者はそのよい例だ。
(・・・もっとも犯罪で手に入れてたお金に使い方もなにもないのだが)


お金を使いこなすために我々に求められるスペック,それは一体なんだろうか?
本当はこれをお伝えして〆としたいのだが、残念ながら吾輩も修行中であるため、今は無理である。
もちろん、目途はついているし、今のところ間違っているとは思えない。
吾輩の中で絶対必要だと思えるスペックが一つある。
「見識」である。


見識・・・物事の上っ面ではなく、本質を捉える能力。


言うのは簡単だが、見ろと言われてすぐ見える本質などない。
見識を高めるためには日々の努力や意識が必要なのだろう。
これはいみじくも、我が子に教えた「日頃から自分のスペックを上げることを怠ってはならない」に通じるものがある。


本質を見抜くのは難しい。
そのために知識や情報をより多く得ることが重要なのだが、それが難しいのだ。
情報化社会と言われているが、これはそんなに都合の良いものではないと思う。
誰でも簡単に情報が取れるようになったということは、誰でも簡単に情報を発信できるようになったとも言える。
そのため発信元が注目を集めるために尾ひれをつけて発信しているものが多くなった。
それどころか一般受けしそうな内容に事実を歪曲して発信しているとしか思えない情報もある。
特にお金に関する情報もそんなのが目に付く。
テレビなどのメディアは、どうもよいモノを持つことが幸せな生活であるというメッセージを発信したがってるようだ。
消費が活性化しなければ経済は停滞してしまうので非難はできないのだが、どうにも意図を理解するのが難しい番組も少なからずある。


有名人の豪邸拝見というような番組があったが、あれはいったいなんだったのだろう?
なるほど立派だった。
いちいち金額を発表していた。
その度にレポータが、「すごいですね~」と相槌を入れていた。
バラエティとはそういうものなのかもしれないが、何を伝えたいのかさっぱりわからない。
視聴者はこれを見て「なるほど、うちもこうしよう」と思うのだろうか?
本当にそう思う視聴者がいたとすれば失礼ながら浅い見識をお持ちだと思う。


まず視聴者は有名人ではなく大抵一般人だ。
住む世界が違う。
いや、そもそも名人=高収入なのだろうか?
有名人である以上、実情がどうあれ景気がよいとハッタリをかます必要が多かれ少なかれあるのではないだろうか?
思うに、ある程度名の通った人であれば豪邸を立てること自体は一般人より簡単だと思う。
問題はその人の本当収入、住宅購入にあたり必要になった出費、借入れた金額、その金利と期間などなどの情報から、生活の維持も含めてどんな計画を立てているか理解した上でその豪邸を見ないことには、その豪邸に住むにふさわしい人物だから、「すごいですね~」なのか、単に見栄をはってるだけですぐに首が回らなくなるであろうそのバカさ加減が、「すごいですね~」なのか判断はできないのではないだろうか。
残念ながら番組がそんな情報を発信することはない。


今あるお金でどう幸せに生きるかを考えることは、よりよい人生のための積極姿勢に見えなくもないのだが、稼ぐことをあきらめた消極的な姿勢とも受けとめられる。
先に述べたようにその考えは「収入がなくなる引退後はともかく現役の吾輩は受け入れられない」。
中年がそう実感しているのに、未来ある子供たちや若者にそんな消極姿勢を推奨できようはずもないではないか。
将来しっかりと自立し自活できる稼げる人間になるためにもお金の理解は不可欠である。
だからお金を危険なものとしてとして、子供たちから遠ざけることは同意できない。
だが、そのなんたるかを教える為には、お金のユーザとして我々大人がスペック不足では話にならないのである。


現代では万引きした商品を下取りで換金したり、ネットにかじりつき株の取引で利ざやを稼いだりする学生、○○○○○○○○○したりする女子学生など、方法を問わず、とにかくお金が欲しい子供たちがいるようだ。

悲しいことだ。


全くけしからんむかっ

どんな育てられ方をしたんだプンプン


ごもっともな非難です。


しかし、どうして彼らはそうなったのかと考えたことはあるだろうか?

十中八九、我々大人の姿を見てお金がそういうものだと学んだのだと思う。


このブログを読まれた方が、少しでもお金について改めて考える機会をもっていただければ幸いである。




こんにちは,貿易屋さんです。

個人輸入についてはいまさら説明の必要もないかと思います。
インターネットの発達、クレジットカードの一般化、そして国際宅配便のサービス向上が特に大きく貢献し、個人で海外の製品を見つけ、購入し、無事に手元に届けることはそれほど難しいことではなくなりました。

一昔前は海外から製品を輸入するなどは法人の仕事でしたが時代は変わりましたね~。

個人輸入もグローバル化とインフラが進む中、一般化してしかるべきなのかもしません。

ところが便利さの裏に潜む危険の認知については、どうもグローバル化とは対照的に一般化していないようです。
その中でもブランド品の個人輸入についてのお話です。

あくどい事を考えるワルモノはとても多いです。
ブランド品には常に付きまとう問題です。
ご存知、ニセモノです。

もうニセモノの蔓延については周知の事実となりました。
どこでも情報は取れるので多くは割愛します。

皆さんもブランド品を輸入する際には、ニセモノを掴ませられないよう気をつけていると思います。
ただ少しでも安く、とお考えでしょうから直営店からではないのではないでしょうか?
有名なサイトから購入するというのは代表的対策でしょう。
サイトが対応していない場合は、信頼できる個人輸入代行に依頼するなどでしょうか。



さて、あなたは某有名グローバル通販サイトでブランド品を購入しました。
日本より安く手に入れられて満足です。
有名なサイトで購入したし、粗雑な作りは見られない。
箱もブランドのロゴ入りです。

それでも、吾輩はお聞きします。
それ本当に本物ですかはてなマーク


根拠は2つあります。

1つめです。
ニセモノの品質向上(?)です。
とても残念なことに、ニセモノも日進月歩で進化しています。
結論からお伝えしますと、素人がいくら目を凝らしても見分けがつかない高品質(?)のニセモノ驚くほど多く流通しています。
断言します。
その物量はあなたの想像をはるかに超えます。
ワルモノもあなたが直営店などに真贋を確かめにいくとは思っていませんし、実際あなたもしないでしょう。
ニセモノと知らずに使用してる方は、もしかしたら少なくないのかもしれません。


そして2つめです。
有名グローバル通販サイトにはニセモノを販売しても責任を問われないのです
かれらは製品を売買する「機会」を与えているだけです
ですのでお金の流れや製品の流通に責任はあっても製品の品質そのものにはないのです。

するとどうなるでしょう?
サイト側に「故意の品質ノーチェック」が起こるのです。
通常10万円で販売されているものが5万円で販売されていれば誰でもおかしいと疑うはずです。
しかしサイト側は、あえてなのか忙しいのかわかりませんが、真贋をチェックしないのです。

なぜでしょうか?

簡単に言えば、
ニセモノであろうとなかろうと、それが多く売れるのであれば結構なことだ」

「我々運営サイトは売買の場を提供してるだけです。関知しません」

という利益のみを優先した体質に変化しやすいのです。



個人輸入はあなたが荷受人です。

製品がニセモノであり、対応を求めるにしても自分でやらなければなりません。
その際、有名グローバル通販サイトと交渉しているように錯覚しますが、実際にはそこに出店しているショップとの交渉になるのです。
そこで初めて、自分はどこと取引をしていたか気づく方もいらっしゃるようです。

そのショップは本当に有名ですか?
信用できるのでしょうか?
どれくらいの年数、そのブランドを扱っているのでしょうか?
いえ、もっと最悪があります。
まだそのサイトに店はあるのでしょうか????


吾輩の友人にもニセモノを掴まされた女性がいました。
あやしいサイトで購入したものではありません。
驚くなかれ、すくなくともまっとうに見える海外のとある店舗で購入したものです。
それは恐ろしく精巧なニセモノでした。
彼女は社会人となった自分への御褒美と、それに恥じない自分になろうという誓いと覚悟と共に、少々背伸びをして買ったようです。

なぜ、ニセモノと判明したのでしょうか?

数年使ったのでメンテナンスで直営店に持ち込んだのです。
その時告げられたのです。


これは笑い事ではありません。
彼女は泣き崩れました。


想像してみてください。


念願叶ってやっとそれを手に入れた日のことを。
うれしくてうれしくて、用もないのにずっと眺めていたその至福な時を。
鏡の前で一人ファッションショーをしたその空間を。
いろいろな場所で、いろいろなシチュエーションで一緒だったその記憶を。
お気に入りとして共に重ねてきたその歳月を。

これからもずっと一緒だ。
そう思って、良かれと思いメンテナンスに持ち込んだその時、あたなはショップの一言で最悪の斜め上の世界へ連れて行かれる。

「これはニセモノです」


なぜ「泣き崩れた」のだろうか?
高かったのにニセモノだったから?
もちろん金額も一つの要因ではあるでしょう。
しかしとても彼女に共感できる吾輩としては、本質はそんなところに無いと断言します。


一体ブランド品とはなんなのでしょうか?

答えはそこにあると思います。


吾輩も好きな筆記具のブランドがあります。
100円ペンでも「書く」という作業は問題なくできます。
しかしそのブランドを手に取り、「書く」という作業を行う時間と空間は全く異質です。

そのブランドの歴史とポリシー。
「書く」為の道具には、不必要なまでに施された遊び心と美しさを備えたデザインと材質。
それを製品に盛り込んだデザイナーの感性と表現する職人の技術。
自分の勝手な想像も含め、そのような情報が手にした瞬間心に喚起されます。

すると、ただ「書く」という行為が、単純な作業から至福に変わるのです。
しかもペンに恥じないようにと、きれいに書くことを自然と心掛けてしまうのです。
無味乾燥な大量生産品の100円ペンではありえません。

「今の時代にそんなに書くことがあるのか?」
もちろんないですよ。
ですのでわざわざ「書く」機会をつくるのです
今は小中学生向けの漢字ドリルをこなしています。
知らない漢字など一つもありません。
全く勉強にはなりません。
しかしもくもくとペンを走らせることができます。
その前は、計算ドリルや雑誌記事の書き取りもやってました。
こんなつまらないことができるのも、ただそのブランドと共に「書く」ことを楽しみたいからです

だから吾輩は思うのです。
ブランド品とは親友や恋人、家族の存在に似ていると。
そこには絶対的で無条件な信頼関係がある。
一緒にいることに必ずしも目的は必要ない。
一緒いる、それ自体が”悦”であり”楽”なのだ。
そして長く付き合うほど、信頼は深まり、自分の人生における意味合いが大きくなっていくのだ。



そんな人にある日突然裏切られたらあなたはどう感じるだろうか?
いや、実際は突然ではない。
本物だと思っていた愛や友情は、実ははじめから「ニセモノ」だったのだ。

信頼が大きければ大きいほど、まず湧き上がるのは悲しみではないだろうか?
それこそ泣き崩れてもおかしくない深い深い悲しみだ。


もっとも吾輩のこの気持ちは何処まで共感されるのか疑問に思わないでもない。

時代は変わり、ユーザーもブランドメーカーも随分変わりました。

安価な中間層向けの製品を大量生産し、誰でも何処の国でも手に入れられるようにしたうえ、めまぐるしい頻度で次々に新しいコレクションを発表するようになったブランドメーカー
しかも自社ロゴを、これでもかと強調したデザインが多い気がするが、これはデザインとしてどうなのだろうか(正直なところそのようなブランドにあまり知識も興味もないので意見はできませんが)。
それどころか本来の生業に関係のない製品にまでロゴ貸しをするロイヤリティー商売まで行っているようだ。

一方ユーザーも、ブランド品を使い捨てのようにとっかえひっかえしているようだ。
なんだかロゴがついていれば、低品質でもニセモノでも構わないと言いだしそうな気がする。
リサイクルショップに多くのブランド品が並んでいる様子を異様に感じるのは吾輩だけだろうか?

はたして、ブランドメーカーにそれを使う人に至福の時間を提供したいというはまだあるのであろうか?
はたして、ユーザーはそのブランド品のブランド品たる所以を考えたことはあるのだろうか?
はたして、両者の間に信頼関係はあるのだろうか?


おっと、話がそれました。
ブランドのあり様については機会があればまた別のブログにします。


結論。

個人輸入、大いに結構。
なんといっても弊社でも個人輸入のお手伝いをしております(対法人の仕事の方が圧倒的に多いですが)。
決して個人輸入を否定するつもりはありません。
ただブランド品はよく考えて行うべきです。

ニセモノの品質(?)と流通量を甘く見てはいけません。
何しろ店舗で購入したものがニセモノだったという事実があるのです。
想像ですが、その店は基本的に本物を扱っているのでしょう。
しかし相手が観光客、特に日本人だと分かると精巧なニセモノを出していたのではないかと思います。
そうすれば、ぼろ儲けですからね。

ワルモノは我々日本人のことをよく知っています
ブランド品が大好きな事、できる限り低価格で手に入れようと躍起になること、真贋を確かめようとしないこと。
ましてや相手の顔も見えない、とんずらが簡単なネットショップならワルモノはもっと大胆になるかもしれません。

うゎ、ニセモノだ叫び
うわ、商品届かないガーン
うおぉ、だまされたプンプン
怒りが湧いてくるならいい社会勉強です。
どうしてそうなったかしっかり反省してください。

しかし何かの記念のような特別なシチュエーションを想定して購入するのならばよほど慎重になるべきです。
吾輩は、泣き崩れた彼女の姿を一生忘れることはできません。
たまたま同行して居合わせただけなのに、ニセモノの恐ろしく強力な精神への攻撃力を目の当たりにしました。
ブランドをとっかえひっかえする人ならばともかく、ブランド品を持つことの意味を自覚している人に与えるダメージは量り知れません。
・・・いや、それ以前に特別なシチュエーションのプレゼントを、現物を確かめることもなくネットショップで購入というのを吾輩はどうかと思うが、今はそういう時代なのだろうか?

あの一見以来、吾輩は確信をしている。
ニセモノは断じてであると。

ニセモノと了解して買う場合はいいだろう?」
そう思われる方は、多くのニセモノの製造現場で何が起こっているのか調べること是非お勧めします。


ニセモノの息の根を止める方法は法律や罰則の強化ではない。
それは無力だ。

その唯一の方法は単純明快である。
あなたも、吾輩も、彼も、彼女も、誰も買わなくすることである

「そんなに精巧ならニセモノをどうやって見分けるんだ?」
はっきり言って無理です。
しかし問題ありません。
その疑問を感じた時点で、あなたの慧眼は昨日より少しかもしれませんが研ぎ澄まされています。

だって、ほらね?

異様に安い金額に、すぐに飛びつかなくなったでしょ?
こんにちは。

もうメラメラ週一UPメラメラは無理だと開き直ってきた貿易屋さんです。
そう思うと・・・
なんだか、とぉ~ってもラク~になってきました~。

お勧めの一冊、第一回目です。
本を紹介するのに、中身をほとんど紹介しない変なブログです。
お暇なときにどうぞ。


吾輩、散髪があまり好きではない。
無頓着というのもあるが、身動きが取れない状態で、よく知らない人が剃刀やはさみを振り回すのが居心地悪い。
それゆえ散髪が必要な時は疲労困憊の時を選ぶ。
緊張する間もなく、即眠りに落ちるからである。

先日いつもの美容院(剃刀がある理容院にはいけません)へ散髪にいった。
スタイルに要望がないので勝手にやってくれるのがありがたいが、「遊び心のあるちょいワルにします」と云われた。
宜しくどうぞと伝え、眠りに落ちようとしたところ、ふと思った。

ちょっとまて!?

ちょいワルってよく聞くけど実際何なんだ?

ワル、すなわち
の反対で、好ましくない事柄に対しての表現だ。

ならば「ちょいヨシ」のほうがまだ適切なのでは?
しかしなぜかかえって悪くなる気がする。

雑誌をみても、くそまじめよりも確かにちょってワルさを匂わせる男性がもてはやされているようだ。ということは、男はこの雰囲気を求め、きっと女性もこの雰囲気に惹かれるのだろう。

は魅力なのか?

しかし女性に好みの男性を聞けば、決してワルを極めた「極悪人」とは言わないだろう。


」。
吾輩、もっと「」について知らなければならない。
そして、この一冊を手にとった。


貿易屋さんのまっとうなブログ
「悪しき造物主」
"善良なるものは創造しない。それは想像力を欠いている。"
                           エミール シオラン



残念なことに吾輩の凡庸なる頭脳にはとても難解で、しっかりと理解できなかった。
しかしこの一節がこの本のエッセンスと思われる。
ここからは吾輩の正しくないかもしれない理解をもとに彼の言わんとすることを想像してゆく。


」 それはすなわちルールを守ること。

」 それはすなわちそれを破ること。

この当たり前を著者のシオランはニヒリストらしく斜めから見ており、彼の考えが先の言葉に凝縮されていると感じる。


我々は社会(コミュニティ)に属して生活している。
吾輩も若い時にはグー自分の力で生きているグーと思いあがったときもあったが、本当に誰の助けも借りずに自分だけで生きている人などいない

人とのつながりよりお金の力がすべてを解決するような風潮があるが、実際はお金と云うチケットと交換でモノなりサービスを提供してくれる人がいるわけであり、そもそもお金を稼ぐのも自分がモノなりサービスを提供してその対価として人より頂戴しているのである。

人間は社会的動物」なのだ。
意識しようとしまいと皆、社会(コミュニティ)に属している

コミュニティができればルールができる
安定した円滑な生活を安心して営むことを望む人々はルールを設けることで、個人の勝手な欲望を他人の迷惑も考えずに実現させないよう縛りをつける。

かくしてそのコミュニティに属する人々はルールを守り、安定した円滑な生活を安心して送ることができましたとさ。めでたし!

そうだとも。
これを「幸せな生活」と云っていいのだろう。

そうだとも。
だからルールを守ることは「」なのだ。
それを破ることは「」であり、罰を受けるのは当然だ。


誰も間違っているとは言わないと思う。
しかし彼はその認識に「ちょっと待ったパー」をかけている。


皆がルールをしっかり守り続けるコミュニティ。
一見すばらいしようだが、そこに属する間に成長はあるのだろうか
彼はそう言っているのだと思う。

ルールという既成概念を超えずして新しい価値感を「創造」することはできない、と。
その為にはまずルールを疑い、別の世界を「想像」することが肝心だ、と。

それができない人間など鳥かごの中の鳥と同じではないか?と。



多分、シオランが生きた時代はカトリック全盛期なのだろう。

カトリックも戒律の厳しい宗教だ。
仲間同士戒律に従い秩序をもって暮らすのもよい。
しかし盲信は考えることの放棄だ。

我々の考えをよそに、時代はめまぐるしく変わる。
ルールの順守は変化を拒むことに等しい。
ついていくためには我々も変わらなければならい。
すなわち「」が必要である。
きっと彼はそういいたいのだと思う。
そして、同時に人は潜在的に」を求めているとも言っている。


漸く本題である。

なぜ「ちょいワル」がもてるんだ?

自分なりに「」を理解したところで、女性の気持ちになって「想像」してみようと思う(なんと!叫び)。
・・・もしかしたら、新しい自分を「創造」したりしてガーン。。。

4人の男性、「ヨシくん」「ちょいヨシくん」「ちょいワルくん」「ワルくん」に告白されたという設定だ。
吾輩は誰を選ぶだろうか??


 そうね~。まず「ワルくん」は論外ね。
 彼は「」そのもの。
 世の中のあらゆることをとにかく否定の為に否定するだけ
 天上天下唯我独尊とでも言いたいのかしら?
 社会性ゼロの彼に人付き合いなんて無理。
 私の友達ともうまく付き合えるわけないし、社会人としても将来が見えないわ。
 ありのままの私も否定されそう

 「ちょいヨシくん」もだめね。
 ちょっとヨイってことは、大部分はワルってことでしょ?
 ワルくん」とあんまり変わらないわ。

 「ヨシくん」も選べない。
 彼は車の運転も実際の道路の流れがどうあれ、制限速度はきっちり守るし、自販機に忘れられた小銭を警察に届けるのよ。
 間違いなく彼の行動は正しいわ。
 でも、正直一緒にいると息がつまる。
 人付き合いはいいけど、結局皆に合わせるだけ。
 場の空気は壊さないのはいいこと。
 でも流れも一切作れない。
 彼はいわゆる「ただのいい人」ね。
 退屈だわ

 「ちょいワルくん」ね。
 彼は大部分は「ヨシ」で、ちょっぴり「ワル」がはいってるの。
 このちょっぴりの「ワル」が彼のいたずら心としていいスパイスになってるわ。
 彼は社会性も高く、ルールを尊重して人付き合いも上手。
 でも彼のいたずら心が常に捜しているの。
 ちょっとルールを外れることができないかって。
 たとえちょっとでもルールから外れたその先にあるものは、規制概念を超えた未知の世界よ!
 彼は私その世界を見せてくれる
 実際彼と一緒にいると次になにが起きるのかとドキドキしっぱなし。
 日常に戻りたくなっても安心。
 大幅にルールから外れてないから、簡単にもどれるわ。
 
 「ちょいワルくん」。
 彼を選ぶわ。。。

いかがでしょうか?
なんだか反論がきそうです。
しかしこれは吾輩の吾輩による吾輩の為の理解である。気にしない!
・・・ただ願わくば、この年になって女性のまねをするという勇気ある行動をとった吾輩をちょってほめてあげてほしいと思う。


帰宅して改めて鏡をみる。
とても印象が変わった。
地味なパーツで構成された吾輩の顔がちょっと華やかに見える。
ちょいワル」。
いいかもね♪

満足して鏡を離れたとき、ふと思った。

ちょっとまて!?
なぜこの髪型は「ちょいワル」よばれるのだ?
ワルという抽象的なものを髪型で視覚化できるのか????

吾輩の「なぜ?」はつづく。。。。



*「ちょいワル」も人の一側面に過ぎず、その人の在りようを完全に決めてしまうようなことは絶対にないです。念のため。
こんにちは。貿易屋さんです。


「あなたの知らない世界」第一弾は、運が悪いと本当に人生を台無しにしてしまうかもしれないドクロ怖ーいドクロ事例です。貿易の仕事にかかわりがなくても、知っておいて損はないです。是非、最後までお目通しください。


こんな依頼を国際電話で受けました。

その方は、とある国にお住まいでAさんといいます。もちろん面識はありません。学生とのことで、卒業し日本に戻るため、家財一式を日本に送る手伝いをしてほしいとのこと。要するに引っ越しです。


以下、電話のでやりとりです。

A:「貿易屋さん。日本に帰国するので、身の回り品の輸出をお願いできますか?」

吾輩(以降B)もちろんです。お任せください。まずは現住所と、荷物の送り先、荷物の明細を教えてください。」

A:「分かりました。ではまず詳細をFAXします。」


A:「届きましたか?」

B:「・・・はい。・・・しかし、お聞きしたいことがあります。現住所と荷物情報はよいですが、荷物の送り先が決まっていないというのはどういうことでしょうか?」

A:「あ、そうなんですよ。日本で就職するんですが、どこの事務所なるかまだ決まってないので住所が決まらないんです。そのくせこっちのアパートの契約期限が間近なので急いでるんです。」

B:「しかし送り先がなければ送れませんよ」

A:「大丈夫です。船便だと日本まで一カ月はかかるそうじゃないですか。その間に決まります。だからすみませんけど、貿易屋さんがひとまず荷受人になってくれませか?

B:「ご家族や親せき、もしくは会社にお願いされてはいかがですか?」

A:「おっしゃることはごもっともです。しかし残念ですが、日本に住んでいません。会社もまだ新入社員の私には頼みにくいです。だから他の会社からは断られてこまっているのです。報酬ははずみます。他を当たる時間もないし、なんとかお願いします!」


みなさんにも、この依頼の胡散臭さは伝わると思います。
しかし胡散臭いだけでなく、実際この依頼を受けることは吾輩にとってとてつもない危険叫びを孕んでいます。
それはどんな危険か、お分かりですか?


まず、このようなケースに対して、
吾輩は絶対に荷受人になってはいけません!!


なぜかはてなマーク


輸入において荷受人は貨物についてあらゆる責任を負わなければならないからです。


それの何が問題かはてなマークたかが身の回り品の輸入でははてなマーク


そこです!!

身の回り品とAさんは言ってますが、本当にそうなのでしょうか?なにしろ荷物は外国にあり我輩は確認ができないのです。

面識もないAさんの情報を手放しで信用するなど危険すぎると思いませんか?


吾輩、腐っても貿易屋さんです。こう想像します。

「この人は本当に引っ越しが目的なのだろうか?」

送り先の住所が決まっておらず、親族も日本にいない。
報酬に糸目をつけない。
時間がない。
なんともできすぎた設定ではありませんか?

つまり身の回り品はカモフラージュで実際には何か他にこそっと送りたいものがあるのではないか?
すなわちドクロ密輸ドクロです。

さらには荷受人の責任範疇を知っており、輸入できれば引き取り、見つかった場合は責任を押し付けとんずらする気では?

さらには学生という身分すら作り話で、実はいけない商売のプロなのではないか?
などなどです。


おわかりになりましたか?
そうです。もしかしたらとてもいけないモノを貨物に忍び込ませ、それをAさんにはノーリスクで日本に持ち込むことが本当の目的かもしれないのです。
とてもいけないモノが何かはあえて説明しませんが、ニュース等でみなさんも耳にしたことがあると思います。

そんなものを乗せた貨物の荷受人になって税関検査でみつかればどうなるかはてなマーク

まず、確実に我輩は貿易屋さんとしてお終いです。築き上げた信用は一瞬で崩れ去ります。もちろん警察のご厄介にもなります。
我輩が被害者であることは吾輩が一番知っています。しかしそんな主張は簡単には通りません。なにしろ我輩、荷受人になっているのです


いかがでしたか?
普段何気なく行っている荷受行為。得体の知れない荷物の荷受人になると、取り返しのつかないことになるかもしれません。


実は本質的に同じ危険が形をかえて身近に潜んでいます。それも社会人だけでなく、老若男女問わずです。

こんなニュースをきいたことありませんか?

渡航先で受け取った荷物にとてもいけないモノが隠されており、帰国の際、税関で御用になってしまったというニュースです。
詳細は分かりませんが、おそらくただで旅行に招待するから荷物を持ちかえってほしいと持ち掛けられたり、現地でたまたま親しくなった実際は知らない人が帰国間際にくれたプレゼントに入っていた、などかと思います。

海外から帰国するまでの間、あなたはあなたの荷物に責任を持たねばなりません。あなたはハンドキャリーでその荷物を輸入するのですから。もらった荷物だから知らない、という言い訳は通用しません。

これは当たり前ですが、案外軽んじられている事実ではないでしょうか?

海外旅行の帰国の際、チェックインカウンターでこう聞かれたことはありませんか?

  「荷物はあなた自身で詰めましたか」

これは詰めるというアクションをあなたが行ったかだけでなく、責任を持てますね?という意味も含んでいるのではないでしょか?

付き合いも長く、あなたが信頼してる人からの依頼であれば、荷受を引き受けるのも大切な人付き合いかと思います。
しかしそうでない場合はよくお考えください。
特にタダで海外にいける、労力の割に儲かる、といった、あなたがとてもラッキーであるかのように思わせるような場合です。

日本はまだ甘い方だと思います。とてもいけないモノの種類によっては問答無用で投獄されたり死刑にされる可能性のある国もあること是非是非覚えておいてください。

あなたのこころに「へぇ~」、「そうなんだ」、「なるほど~」をお届できたことを祈ります。



注:実際に引っ越しの依頼は受けましたが、先にあげた例はこのブログの為に設定したフィクションです。親しい人からの依頼であり、まっとうな商売をさせていただきました。
税関は優秀です。このような方法での密輸は現在不可能だとお考えください。

2週目にしてメラメラ週一UPメラメラの言葉を違えた貿易屋さんです。


いや~、先週は実にハードなスケジュールでした。その上、名古屋は連日37度超したそうで、営業活動はすこぶる非効率的でした。

なんといっても移動だけで体力を消耗します。「HP回復」に喫茶店やコンビニに寄る頻度がいつもよりあがり時間もかかります。


さて早速ですが、べたな質問からスタートです。

鉄の塊1000kgと綿の塊1000kgはどちらが重いでしょうかはてなマーク

はい、その通りです。どちらも同じです。イメージでは鉄の方が重そうですが、両方とも1000kgですので同じです。



しかしビックリマーク


実は貿易屋さんの立場でお答えしますと、これら二つは全く重量が異なり、確実に綿は鉄の何倍も重いことになります。


なぜかはてなマーク


実は貿易において貨物の「重量」とは


  実重量(はかりで示す重量)

  容積重量(体積から換算する計算上の重量)


の2つがあり、比較して重い方をその貨物の重量とするルールがあるからです。

ふわふわの綿は体積において鉄よりもはるかに大きくります。故に実重量は同じでも容積重量が大きく異なるのです。

一般的に貿易は航空便か船便が運送手段となります。
それぞれの容積重量の算出方法は以下の通りでこれは取り決めごととなっています。

航空便:貨物の縦x横x高さ(cm)÷6000 単位kg
船便:貨物の縦x横x高さ(m) 単位t


では、鉄と綿の容積重量を計算してみましょう。

鉄1000kg

おおよそ0.5x0.5x0.5mのサイズになります。

航空便:50x50x50÷6000=20.83kg
船便:0.5x0.5x0.5=0.125t

鉄の容積重量のなんと軽いことでしょう。しかし実重量はきっちり1000kgありますので、どちらの輸送方法でも1000kgとして扱われます。


綿1000kg

体積については、我輩、現物を見たことがありませんし、調べてもわかりませんでしたので3x3x3mと仮定します。

航空便:300x300x300÷6000=4500kg
船便:3x3x3=27t

なんと実重量は1000kgなのに航空便は4500kg、船便においては27tとして扱われてしまうのです!

そしてもちろん、運賃は実重量容積重量の重い方で決定されます。運賃は会社によりさまざまですが、綿1000kgの輸送は鉄1000kgよりもはるかに金額が高くなることは間違いありません。

ひどい叫び


と思われるかもしれません。しかし、これには合理的な理由があります。


想像してみてください。


あなたは実重量ベースでのみ運送業を営んでいるとします。そこにパンパンに膨らんだ風船をできる限り運んでほしいという商売が来たとします。貨物はもちろん満載のほうがありがたいです。しかし、


あなたはこれをよいビジネスだと思われるでしょうか?


膨らませても風船など数グラムです。何個運ぼうが運賃は最低限の価格しか請求できなくなります。そのくせ、積載スペースはすべて占領されてしまい他の荷物を載せることはできません。


これでは例えどんな近い場所に運ぶにしても、あなたの人件費や経費を考えれば、大赤字となりませんか?


運送業もビジネスです。まっとうな商売を続けるためにはこの容積重量という考え方は不可欠なのです。

国内の宅配便は大きさに関係なく重量のみで金額を提示しますが、これはお客様の利便性を考えたうえでの判断で本当は体積を気にしているはずです。貨物の容積重量は問わない一方、最大値を設けていることがその証拠かと思います。


いかがでしたでしょうか?

あなたのこころに「へぇ~」、「そうなんだ」、「なるほど~」をお届できたことを祈ります。


注:今回の例は容積重量を分かりやすく説明するためだけに挙げています。故に実情に沿わない点があることをご了承願います。例えば綿の寸法を3x3x3mと仮定しましたが、このサイズはコンテナに積めません。ですので普通であれば梱包の仕方を変え寸法を変更するでしょう。

ビックリマーク貿易屋さんのブログへようこそビックリマーク

星の数ほどあるブログの中から、偶然であれ必然であれアクセスいただいたとは嬉しいことです。

吾輩、管理人の「貿易屋さん」と申します。
恥ずかしがり屋さんでもあるので、なんのひねりもないこの呼称にて宜しくお願いします。

 エイシアトレーディングの一員としては5~6年程(社歴をパッとこたえられる人を尊敬します)ですが、社会人歴はそれなりに長いです。
 吾輩、字は下手なのに文章を書くのは昔から好きでしたのでブログ担当を引き受けた次第ですが、初稿で既にくじけそうです。そう、なんといってもブログは内容はもちろん「続ける」ことが重要です。それも日常の業務もこなしつつ、ブログとはいえ対外的文章を、である。なんともえらいことを請け負ってしまったものだ。



 しかし読者の皆様のお時間をいただく以上、この重圧に耐え、ちょっとしたことでもよいので、

     「へぇ~」、「そうなんだ」、「なるほど~」

と思っていただける何かをお届けしたいと思います。

ブログタイトルは「まっとうなブログ」です。悪ノリ(しやすいので)しないように邁進します。



今、予定してるテーマは3つです。

①役にたつ(かもしれない)貿易豆知識
身近になったとはいえ、まだまだ一般には知られていないと思われる貿易知識や情報のUPをします。

②あなたの知らない世界
どんな業界にもダークサイドは存在します。いえいえ、別に悪い意味ではありません。その業界に身を置かなければ入ってこない情報もあるという意味です。その情報の中から掲載して問題のなさそうなものを選んでUPしていこうと思います。

③お薦めの一冊
少なくとも、吾輩の仕事は「毎日が刺激的でネタに事欠かない!」などということは全くありません。
故に①と②は遠からずネタ切れになると確信しています。
そうなるとこのカテゴリーが増えてきます。悪しからず。。。

無論、その他スポット的に面白いテーマがあれば、迷わずネタとして利用します。すべてはブログを続けるために・・・


他人のブログを読むことはありましたが、よもやこの年になって吾輩が書くことになるとは思いもよりませんでした。
目標はメラメラ週一UPメラメラです。
どうせやらねばならぬなら真剣に!そうでなければ楽しめぬ!そう自分を鼓舞し頑張ります。


・・・この投稿で自ら重圧を高めたと思うのは穿ちすぎだろうか叫び