瀧廉太郎  Wikipediaより寸借
 
 
 ピアノ曲『憾(うらみ)』は、日本における西洋音楽の揺籃期において、数々の歌曲を作曲し、将来を嘱望されながらも、結核の病に倒れ、23歳で夭逝した、天才・瀧廉太郎先生の残された最後の作品である。
 
 
 「憾(うらみ)」の意味は、『心残りに思う事』であり、「憾悔・遺憾」などに使われ、「恨」「怨」とは異なる。
 
 
 瀧廉太郎は、ピアノ曲『憾』の他に『メヌエット』を残しているが、この2曲以外は全て歌曲である。
 
 
 
 
 
 「瀧廉太郎」と言えば、 小学校の音楽の教科書にも載っていた、『花』『荒城の月』『お正月』などを思い起こされる方も多いぃじゃろう。
 
 
 
 瀧廉太郎は、1879年(明治12年)8月24日、内務官僚であった瀧吉弘(瀧家は豊後国日出藩の家老職を代々つとめた上級武士の家柄)の長男として、東京府芝区に生まれた。
 
 
 
 父・吉弘は大蔵省から内務省に転じ、大久保利通や伊藤博文らのもとで内務官僚として勤めた後、地方官として神奈川県や富山県富山市、大分県竹田市などを移り住んだため、廉太郎も生後間もなくから各地を回ることになった。
 
 
 
 1890年(明治23年)年に15歳で東京音楽学校(現:東京藝術大学)に入学し、1898年(明治31年)に本科を卒業し、研究科に進み、作曲とピアノ演奏でめきめきと才能を伸ばしていった。
 
 
 
 1901年(明治34年)4月に、日本人の音楽家では3人目となるヨーロッパ留学生として出国し、5月18日にドイツのベルリンに到着し、同地で日本語教師を務めていた文学者の巌谷小波や、ヴァイオリニストの幸田幸、また海軍軍楽隊から派遣されたクラリネット奏者吉本光蔵などと交友を持ち、共に室内楽を演奏したりしたらしい。
 
 
 
 さらにライプツィヒに向かい、ライプツィヒ音楽院(設立者:メンデルスゾーン)に、文部省外国留学生として入学、ピアノや対位法などを学ぶが、わずか5か月後の11月に肺結核を発病し、現地の病院で入院治療するが病状は改善せず、帰国を余儀なくされた。
 
 
 
 1902年(明治35年)7月10日にドイツを発ち、ロンドンを経由して10月17日に横浜に着し、その後、父の故郷である大分県で療養していたが、1903年(明治36年)6月29日午後5時に大分市稲荷町(現:府内町)の自宅で死去したんじゃった。
 
 
 
 満23歳没(享年25)じゃった。
 
 
 
 結核に冒されていた事から、死後多数の作品が焼却されたらしい。・・・未発表の作品も在ったじゃろぉに、とても残念な事じゃと思う。
 
 
 
 あの時代に在って、文部省外国留学生として洋行した事は、如何に彼に大きな期待が寄せられていたかが伺えるし、留学して間も無く、病によって帰国を余儀なくされ、養生の甲斐もなく、一年後に亡くなるとは、将に憾悔の思い如何ばかりで在ったろぉと胸が痛むんじゃった。
 
 
 
 今日、YouTubeで、瀧廉太郎先生の残された最後の作品である、ピアノ曲「憾」を聴きながら、物悲しい同じ旋律を単調に繰り返す、この短い曲の中にこそ、先生の全ての思いが込められちょる様な気がして、哀しみに包まれたんじゃった。
 
 
 
 今日の広島の空は、天気予報に反して晴れ亘っている。・・・先生の没後、116年目の今日の空・・・。
 
 
 
 『梅雨の晴れ間は五月晴れ』 
 
 
 
 
 今日は旧暦の5月27日・・・昨日、広島は30℃の真夏日で、今年初めてエアコンの御世話になった・・・儂の苦手な夏の本番も近い。・・・アジアの片隅より