ブログ引っ越し・・・新たに再々スタート

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 病床の為、長らく休止して居りましたが、平成30年5月6日より、「暁橋のたもとから」と題しまして、ブログを再開致しました。

 

 

 引っ越し先  「暁橋のたもとから」

 

 

 

 宜しく御願い致します。 ・ ・ ・ 土師より

 

 

「アーカイブ」・・・瓦片への思い ③

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初めまして

 土師祈昌の娘の実紗です。

 父が昨年の10月に脳血栓で倒れた為に、このブログを中断してから随分になり、多くの読者の方から心配するメール等を戴いて居りましたが、返信する事も叶わず、申し訳ありませんでした。

 幸いにも、父の症状は思ったほど重くなく、若干の後遺症は在るものの、自分で日常生活を送れる程に回復し、現在も通院しながらリハビリに励んで居ります。

 今回、父の依頼を受けて、昨年の8月1日から8月6日に掲載した記事を「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



 先の戦大から、70年の時を経て、『戦後70年』『被爆から70年』と、言う言葉を、毎日の様に耳に致します。


 広島に生まれ育ち、今なお、広島で暮らす私には、他の方々とは別の、感慨を抱いて居るのかも知れません。



 8月が訪れ、原爆に纏わる過去の一連の記事を、「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



【2015年1月26日 掲載記事】【7月20日・予約投稿】

 灯篭流しの光景




 もう、40年近くも前の出来事なので、正確な日にちは、定かでは在りませんが、大学教授による、瓦片の鑑定結果が出たのは、初秋の事だったと思います。


 社会科学研究同好会(通称・社研)の、放課後のミーティングの時に、大亀先生から報告が在りました。




 先輩達は、一様に喜んで居ましたが、私は心の中では、複雑な思いが渦巻いていて、心から喜ぶ事が出来ませんでした。



 その頃の私は、先生や先輩達の活動に、共に参加して行く事が、微力で在っても、「恒久平和」に繋がる活動だと、純粋に考えて居ましたが、瓦片の件で父に叱られて以来、社会全体の情勢や、周囲の意識の中での自分と言う存在を、客観的に、観たり考えたりする様に成りました。


 そもそも父は、私が瓦片を持ち帰った事を叱ったのでは有りません。


 悲劇の証とも言える瓦片を、宝物でも発見したかの様に、喜び燥いで居た私に、激怒したのでした。



 色々と考えて居る内に、活動に疑問を持ったと言うのでは無く、何が正しく、何が違うのかが分からず、どうして良いのかが、全く分からなく成って居ました。


 私が、「分からなくなった」、最大の要因は、原水協 原水禁 の存在でした。

 
 昭和30年(1955年)に結成された
、原水爆禁止日本協議会は、意見の対立により、昭和40年(1965年)に、原水爆禁止日本協議会 原水爆禁止日本国民会議 の、2つの団体に分裂しました。



 その経緯については、長く成りますし、私の表現力では、誤解を招いて炎上し兼ねませんので、此処を御読みください。



  此処原水禁は何故二つに分かれているのですか?


 原水協の中の、主流派であった共産党 系の会員と、反主流派とされた社会党 系の会員との、党の意向に由る分裂でした。


 広島の、反核・平和運動を牽引する、この二つの大きな団体は、少なからず、高校生の活動に影響を及ぼしており、当時の私の考えでは、原水禁の方に、幾らか部が在ると観て居りましたが、私が参加していた活動の周囲は、原水協に属する先生方が大半を占めて居たのでした。




 当時の高校生の活動は、安田女子中学高等学校 広島県立広島商業高校 山陽高等学校広島県立広島観音高等学校 広島電機大学付属高等学校 の、社会科学研究部や同和問題研究部が中心となって、活動して居ましたが、顧問の先生方は、原水協に属して居られた様で、その影響を大きく受ける形と成って居りました。


 私は、そんな思いを誰にも相談出来ないまま、それでも一生懸命に活動に参加し続けて居りました。


 翌年(相和53年・1978年)の2月、広島高校生平和ゼミナール が設立され、それにも携わって居りました。


「政治や、イデオロギー に関係無く、目指す目的が一番大切だ。」と、考えて居たからです。


 私が、伯父の遺品を見せて頂く為に、父の実家を訪ねたのは、その頃の事でした。



 伯父の日記を読んで、触発された私は、高校に入学した頃から読み始めた、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア (キング牧師)の伝記や著書や、広島と縁が深く、中学生の頃から憧れていた、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ (チェ・ゲバラ)の著書を読み進め、比較したり、色々と考えを深めていく内に、どうやら、間違いとは言い切れなくとも、今、遣っている活動は、偏っているように思えました。



 しかし、何を為すべきか、どう進むべきかは、皆目見当が付かないで、周りの勢いに流されながら、日々を過ごして居ました。



 奇しくも、伯父が亡くなった、16歳でしたが、伯父の様に明晰な頭脳も無く、幼少の頃から習っていた柔術や、師事していた占術や、ドライブインでのアルバイト等、遣りたい事が沢山在って、学ぶ事に身が入らず、『伯父さんだったら、どうされただろうか?』と、いつも、想像して居りました。


 そんな風に過ごして居た2年生の春、ある先生から『生徒会の活動に、お前の力を貸して欲しい。』と、声を掛けられました。



 当時、私の学校 『不良校』と目されて居り、小規模な女子商業科と、普通科に、数名の女子生徒が居りましたが、ほぼ、男子校で、当時は、近隣に在りました、広島朝鮮中高級学校 の生徒との対立なども在り、一部、荒れた生徒も居りましたが、進学校でないぶん、伸び伸びとした気風に溢れて居りました。


 「平和運動も、えぇんじゃが、自分が居る学校を良ぉして行く事から始めて行くんも、平和運動に繋がるんじゃないか。」との、先生の言葉に便乗する形で、生徒会の活動に加えて頂きました。



 生徒会の活動に参加してからは、社研の活動から離れ、私なりに、一生懸命頑張りました。


 
 大した成果は上げられませんでしたし、周りの方々に迷惑ばかり掛けて仕舞いましたが、頑張った分だけ、微細ながらも成果が目に見え、遣り甲斐を感じる事が出来ました。



 原爆犠牲ヒロシマの碑


 
 その後、我が校の社会科学研究同好会は、クラブへと昇格し、広島高校生平和ゼミナールの活動 の、中心的な存在と成って行き、私等が拾った瓦片は、「被爆瓦」 と呼ばれる様に成りました。



 昭和55年(1980年)に、私は、京都の大学に進学する為に、広島を離れました。


 
 2回生の時の夏休みに、帰省した私は、久し振りに平和公園を訪ねました折、河原に大勢の人達が下りている光景に出合いました。



 すぐに、原爆瓦を拾っているのだと解りました。


 ワイワイ、ガヤガヤと賑やかに作業している様子を観て、あの日の自分を見ている様で、とても切なく成りました。


 それと同時に、何か、遣り残して仕舞ったモノが在った事にも気付きました。



 先日、私にコメントを下さった、広島の高校生の皆さんへ・・・人生には、後から気付く事が多いのです。



 「もし、あの時、こうしていたら・・・。」と、思う事ばかりです。



 だからこそ「あの時、あれだけ悩み抜いて選んだ結果だから・・・。」


 「あの時、あれだけ努力して頑張った結果だから・・・。」 と、悔いを残さずに、前向きに受け止められる様に、今、出来る限り悩んで考え抜き、出来る限りの努力をなさってください。


 これが、反面教師として、彼方達に未来を託す、愚者である私の願い です。・・・アジアの片隅より


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「アーカイブ」・・・瓦片への思い ②

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初めまして

 土師祈昌の娘の実紗です。

 父が昨年の10月に脳血栓で倒れた為に、このブログを中断してから随分になり、多くの読者の方から心配するメール等を戴いて居りましたが、返信する事も叶わず、申し訳ありませんでした。

 幸いにも、父の症状は思ったほど重くなく、若干の後遺症は在るものの、自分で日常生活を送れる程に回復し、現在も通院しながらリハビリに励んで居ります。

 今回、父の依頼を受けて、昨年の8月1日から8月6日に掲載した記事を「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



 先の戦大から、70年の時を経て、『戦後70年』『被爆から70年』と、言う言葉を、毎日の様に耳に致します。


 広島に生まれ育ち、今なお、広島で暮らす私には、他の方々とは別の、感慨を抱いて居るのかも知れません。



 8月が訪れ、原爆に纏わる過去の一連の記事を、「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



【2015年1月25日 掲載記事】【7月20日・予約投稿】

  夜の元安川


 
 こうして、実家までの15㎞程の道のりを、意気揚々と帰ったのでした。


 実は、拾い集めた瓦片の一つを、記念にしようと、持ち帰って居ました。

 私が、その瓦片を、納める為に、刷毛で泥を落として居りますと、父が、

 「何ぃしよるんなら・・・?」と、聞きましたので、それまでの経緯を話しました。

「わりゃぁ(お前は)、それが、何か分かっちょるんかぁ?」と、非常に不機嫌な、顔と口調で言いましたので、


 
「ほいじゃけぇ、原爆ん時に吹き飛ばされた瓦なんよ・・・平和公園のはたり(傍)の、元安川の河原で拾ぉたんじゃ・・・平和活動の為に使うんじゃ。」と、言いますと、


「それが、何か、分かっちょるんか言ぅて聞きよるんじゃぁ!・・・わりゃぁ、何にも分かっちょらんのぉ!・・・その瓦の上やら下やらで、人が殺されたんじゃろぉが!・・・そりゃぁ、墓石みたいなモンじゃろぉがッ!」


「そがいなモンを家ぇ拾ぉて帰りゃぁがって!・・・何が平和運動ならッ!・・・死んだ人を粗末にする様なモンは、平和運動やなんかじゃぁ在りぁぁせんよぉ!」


「すぐに、在った所へ返してこい!・・・分かったかッ!」
と、蹴り飛ばされるのではないかと感じたぐらい、物凄い剣幕で怒鳴られました。


 

 私は、呆気にとられて声も出せずに頷き、すぐに支度をすると、自転車で平和公園へ向かいました。

 自転車を漕ぎながら、色々な事を考えて居りました。

 父の言う事は、尤もだと思いました。

 無学で、短気な、広島の漁師でしたが、勤勉で、人の道理を弁えた、誰からも慕われる人でした。

 厳しい言葉で怒鳴られた事よりも、原子爆弾によって兄を奪われ、その直後に、
阿鼻地獄 と称された、あの惨劇の地に立ち、あの惨劇を目の当たりにした人間の、その思いに圧倒されて居りました。

 浮かれていた自分の浅墓さと愚かさが、悔やまれて成りませんでした。


 夕暮れの街を自転車で走って、
元安橋 の袂に着いた頃には、すっかり陽が暮れていました。

 橋を渡って公園に辿り着き、左に折れて、瓦片を拾う為に河原に下りたガンギ(桟橋や海へ下りる石の階段)の所へ行きましたが、既に潮が満ちていて、河原に下りる事は出来ませんでした。

 申し訳無いと思いながら、ポケットからハンカチに包んだ瓦片を取り出して、手の平に取ると、一度、額に当てがって思いを込めた後、河原に向かって高く放り投げました。

 瓦片は、川面の中央に落ちて、小さな同心円を描きました。

 それを暫く見つめながら、皆で瓦片を拾い集めていた時の事や、父に怒鳴られた事など思い返して居りましたが、蚊に刺されるのが嫌だったので、河原に向かって手を合わせ、御題目を唱えてから、帰路につきました。




 

 現在の海田湾の夜景




 国道31号線を呉方面に向かって暫く行くと、海田湾 越しに、広島の街灯りが見えました。

 今は、殆んどが埋め立てられて、
商業施設 病院 や工場群が立ち並んで、面影さえ在りませんが、当時は、チヌ(黒鯛) が沢山獲れる、豊饒の海でした。


 その景色を、心細い気持ちで見詰めながら、家に帰りました。


 流石に、へとへとに疲れて、冴えない気持ちで、家に入ると、父が、

 「遅かったのぉ、しんどかったじゃろぉがい・・・腹が減っちょろぉが・・・飯ぃ食えや。」と、コップ酒を飲みながら、言いました。

 私は、また何か言われると思って居りましたので、父の、いつに無く柔らかい口調を、意外に感じながらも、ほっと致しました。


 夕食を食べ終わった後に、焙じ茶を飲みながらテレビを観ていると、父が、


 「お父さんはのぉ、ワレが色々と頑張っちょるんは、ぶち嬉しぃんじゃ・・・じゃがのぉ、自分は、えぇ事をしよる思ぉてする事でも、他の人にとっちゃぁ迷惑じゃったり、心ぉ傷付けられたりする事も在るんよ。・・・じゃけぇ、何かしょぉ思う時ゃぁ、そがいな事まで考えてからせにゃぁ、結局は、ワレが冴えん目ぇ見る様になるんでぇ。・・・ほれに、死んだ人ぁモノを言えんけぇのぉ・・・何が正しゅうて、何が違ぉちょるかは、分かり難いんじゃが、それぇ分かる様に成る為に学校へ行きよんじゃろぉがい・・・しっかり勉強せぇよ。」と、染み染みと言いました。

 私は、何も語れず、ただ頷いて、父の話を聞いて居りました。


 その後、風呂に入って、湯船に浸かって居りますと、色々な思いが込み上げて来て、何故か涙が溢れて止まらず、何度も何度も、顔を洗い流して居りました。・・・続く・・・
アジアの片隅より


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