注意力散漫なときって

はた目には空気読めないのんきなひとと見えるだろうけど

脳内のタブが開きすぎて動きが鈍っているが、当人は五感の刺激を受けとるチャンネルがいつもより多く開いている状態なので

じぶんが水のなかにいて思うように動けないなかで複数の蚊にまとわりつかれているような感覚で

見た目に反してけっこう負荷がかかっている


本人の話を聞こうとせず、じぶんの見えかただけでなんでも判断しようとするひとは、他人をレッテル貼りするばかりで自分を疑わないのでアップデートがない

いつしかレッテルの精度もいまいちになり、じぶんと世界の食い違いにいつも苛立っているひとになる


ネットでもリアルでも

発達さん×定型さんにまつわるさまざまなエピソードが

かえって定型さんたちの知性や人間性のスペクトラムも浮き彫りにしてくれていること

そこがわかれば人間全般のスペクトラムの全体像が見通せるようになることに最近気づいてきた


知性の柔軟度(学習能力の高低)

×人間性の練度(発達課題の達成度)

×社会スキルの精通度(言語/非言語のコミュニケーションスキルの習熟度)


で立体的にスペクトラムになる


高い、高め、ふつう、低め、低い、くらいの雑な解像度でも把握には十分すぎるほど十分だろう


そこにじぶんの対応可能範囲を重ねて

そこからはみ出すひとからはまず離れる

必要があれば学ぶ、てことが互いにできれば

余計な干渉や軋轢が少しは減るのではないかなー


***


私もじぶんに診断が降りてから25年

隔たりを感じることはまだ多々あるけど

雲の上の敵のように感じて恐れ憧れ憎んでいた定型さんも

体内に巣くう化け物のように感じられて忌み嫌っていた自分自身も

等しく人の形になってきている


「出たーADHD(爆笑)」

「はい出た定型しぐさ(爆笑)」

って、お互いに受け入れながら、言い合いながら

しゃーないな、って折り合いつけられる関係に

なれたらいいなって思うけど


いまはまだ「はい出た定型(笑)」って言ったら

だいたいキレられるか、嫌われるから(苦笑)

(言うなら言われろよ、とは思うけど)


カサンドラも結局双方向性の拒否だから

自分を客観視する視点がないのでアップデートがない

相手がおかしくなければ自分がおかしいことになるので

(実際おかしいとこもあるんだけど)

自分が普通だという自意識を守るために

相手がおかしくないと困る、という無意識の人たち

上のスペクトラムに照らせば

ある程度はー離れるべき相手、という結論になる


「ワタシはワタシ、あなたはあなた。で、どうしよっか」からはじめられるってことが、愛し合えるということなのだと思う