前回に続いて、外国で買った本の紹介です。今回はタイ篇です。

先ずはタイ南部の街、パタニで入手した貴重な出版物。タイの中のイスラム対中国の、数百年に及ぶ文化と文化の衝突と葛藤の物語です。ヒロインは、学問的には存在が疑問視されている林姑娘(リム・コーニオ)。しかし中国系タイ人たちの間では絶大な信仰を集める宗教上の聖女です。

 

 

「林府姑娘事蹟」。20年以上前ですが、現地の廟で入手しました。

 

パタニはマレーシア国境に近く、人口の80%をマレー系のイスラム教徒が占めるタイの中でも、もっとも敏感な地域。タイ人の支配に満足することなく以前から分離独立運動が盛んで、近年はイスラム原理主義者たちの浸透も指摘されています。非イスラム教の住民へのテロや誘拐、銃撃戦なども頻発する大変危険な地域かと思います。

東西冷戦終結以降、世界を覆うイスラム対非イスラムの対決の構図が、もっともドラスティックな形でタイに現れているのがこのパタニの街といっていいでしょう。

 

 

話はこうです。林姑娘(リム・コーニオ)の兄、林道乾(リム・トーキエン)は16世紀の明の時代、福建省沿岸を治める海賊の統領でしたが、倭寇との海戦に勝利した明の水軍に追われ、澎湖列島から台湾、ベトナム、タイへと南下を続け、ついにパタニにたどり着きます。

当時、パタニは、マレー人の支配するイスラム王国でした。 パタニ王に謁見した道乾は、その人材を見抜かれ、家臣として重用されます。 マレー女性と結婚し、イスラム教に改宗すると、爵位を授与され、富貴で栄華に充ちた人生を送ることになりました。

 

道乾からの音信が途絶えた母親は、憂いのあまり病に倒れ、姑娘は、看病の日々に明け暮れます。そして母親が病から回復すると、自らパタニを訪れ、兄の説得に赴くことを決意しました。

 

 


過酷な航海の末にパタニに辿り着き、兄、道乾に再会した姑娘は、来訪の目的を話し、帰郷を促します。しかし、すでにパタニの地で自らの人生を切り開いた道乾は、応ずることはありません。そして自らの信仰の証として、モスクを建設し始めるのです。

 

言葉による説得が不可能であることを悟った林姑娘は、自らの命と引き替えに、兄の愚行を妨げようとしました。建設中のモスクに呪いをかけ、その隣地に高くそびえるカシューの木で、首を吊ったのです。

モスクが完成すると落雷し、出火するという事故が起きました。そして被災部分を修復するたびに、雷に襲われ、道乾はついにモスクの工事を断念しました。

 

以来、誰かが、モスクの工事を引き継ぐたびに不幸な事故が相次ぎ、結局、最近に至るまで、 このモスクは未完成のまま放置されていたのです。

 

 

かつては王宮があった現在のクルーセ村付近に、林道乾が建設に着手したモスクです。20年以上前に訪れました。

妹・林姑娘の呪いにより完成することのなかったモスクも、近年になり、イスラム系住民への融和策としてタイ政府が完成させたのです。

 

 

イスラム教を否定し、呪いをかけるために林姑娘が首を吊ったとされる木です。不吉な影がさしているようにも思えました。

モスクのすぐ隣地に数世紀にわたって立ち続け、聖墳として祀られて、タイ南部に暮らす中国系住民の熱烈な信仰を集めているのです。

 

モスクの隣地で大変綺麗に整備された林府姑娘聖墳。私が訪れたときは、昼間から爆竹が焚かれていました。

 

 

クルーセ村の聖墳とは別に、市内には林姑娘を祀る中国寺院、霊慈聖宮があり、毎年、 陰暦の1月15日には中国系住民の間で祭りが催されています。参拝客の多いことは、霊慈聖宮の向かいに建てられた大規模な休憩所と大型バスの駐車場を見れば充分想像がつきます。ここを訪れる参拝客は、その足で、クルーセ村の聖墳にも足を運ぶのです。

 

 

凄い話だと思います。文化と文化の争いの凄まじさを感じます。文化と文化は、なぜかくも激しくいがみ合うのでしょう。

以前、横浜国大に留学中の中国系タイ人に、「林姑娘を知っているか」と訊ねたところ、「中国系タイ人なら知らない者はいない。」という答えでした。

 

私は、特にどちらか一方にくみすることはないのですけど、アジアの中のイスラム対中国の構図は、アジアを旅する中であちこちで見てきました。ときどきは、そんなこともブログの中で書いてみたいと思います。