前回のブログの終わりのほうで、「ローレンス・オズボーン原作の「The Ballad of a Small Player」がすでにNetflixで映画化され、配信もされているのですぐ見ます」と書いたのですが、さっそく観ましたよ。
でも、失敗作でした(^^;
画像はネットからお借りしています。
また、頭の悪い私では、自分の感じたことをうまく表現できないので、AIさんと対話することで、私の思いの言語化を手伝ってもらいました。
まず、これがどういう物語かというと、以前、原作の小説をブログで取り上げたときの、私の紹介文を再掲しておきますね。
「物語の主人公は「Lord Doyle(ドイル卿)」を自称する55才のイギリス人。実は爵位などなく、イングランドの地方都市の法律事務所の事務弁護士として資産家の老未亡人の資産管理を委ねられ、未亡人の金をくすねるたびに香港の隠し口座に送金し、ばれた翌日には香港に逃亡。
そして、より匿名性の高いマカオに移り住むと、リスボア・ホテルに居を構え、マカオのカジノに入り浸るという生活を10年間送ってきました。
爵位ある人物としての身のこなしや着こなし、アクセントなどで周囲を騙し、ギャンブル依存症に陥り、盗んだ金も少しずつ目減りして破産寸前という状況の中で物語が始まります。」
映画を観た私の感想です。
以下、ネタバレはあります。
このドラマ、原作の構図を大きく変えています。小説を映像化するとき、一寸たりとも改変してはいけないと言うつもりはありません。大きく改変してよくなった例はいくらでもあると思います。
ただ、今回のように完成度の高い原作を改変するときには慎重であってほしいと思いました。ドラマの意味自体を変えるようなことは謹んでほしかったなと思います。
失敗の原因なのですけど、
■原作は、西洋から逃げて来た西洋人が東洋の怪異に包まれて滅んで行くという耽美的な世界を描いています。モチーフとなったのは、「雨月物語」(溝口健二映画と上田秋成の文学)であり、おそらくは、「雨月物語」の元本となった中国の古典文学、「白娘子永鎮雷峰塔(白蛇伝)」。
しかし、「シンシア」という原作にはない西洋女性を登場させ、重用してしまったがために、東洋の怪異を体現する「ダオミン」という中国人女性の存在の意味が大きく崩れ、なにを言いたい映画なのかよくわからなくなってしまいました。
右からドイル役のコリン・ファレル、シンシア役のティルダ・スウィントン、ダオミン役のファラ・チェン、グランマ役のディニー・イップ
シンシアは、ドイルが盗んできた金を取り戻すためにイギリスから派遣された私立探偵。ティルダ・スウィントンの快演で、映画の中での存在感が大きく、その分、ダオミンの存在理由が薄れるとともに、「雨月物語的世界」というドラマの基本的な構図が崩れ、安手のサスペンス映画的要素が中途半端に侵食してきました。
「雨月物語」の真女児のように、「愛ゆえに男をどこまでも追い詰め、破滅に引きずり込んででも一体になろうとする」ような、狂気を孕んだ原作のダオミンが、映画では男を救済する聖女のような存在に置き換えられてしまいました。
原作のラストシーンである「ダオミンの霊に怯えながら、ダオミンに包まれて安息を感じるドイル」の姿に、自分を破滅へ導く存在だと分かっていながら、その存在の腕の中にしか自分の安息がないという、人間の孤独と業(カルマ)が描かれており、そこに物語の核心部分があったのですが、映画版のラストシーンはいかにも消化不良で、ダオミンのキャラクターが曖昧にされてしまいました。
■主人公のドイル役を演じたコリン・ファレルは明らかにミスキャスト。私は小説を読みながら、ずっとスティーブン・マッキントッシュのイメージで読んでいました。
中央がスティーブン・マッキントッシュ。「ホテル・ハルシオン」時の画像です。
そのあたりのことをAI先生と対話をしてみました。少し長いですが、あまりにも的確にふたりの役者さんを評価、描写しているので引用しますね。
AI先生(抜粋です):
ドイル役にスティーヴン・マッキントッシュをイメージされていたというお話には、思わず膝を打ちました。完璧なキャスティングだと思います。
コリン・ファレルがなぜミスキャストであり、なぜスティーヴン・マッキントッシュこそがドイルであるべきだったのか、役者の持つ資質から考えるとご指摘の意味が非常によく分かります。
1.スティーヴン・マッキントッシュが体現できる「繊細な崩壊美」
スティーヴン・マッキントッシュは、英国的な気品(クラス感)と、その裏に潜む「今にも壊れそうな神経質さ」「冷徹な狂気」を演じさせたら右に出る者がいない名優です。
2.コリン・ファレルの肉体性がもたらした「みっともなさ」
一方でコリン・ファレルは、どれほど演技派であっても、本質的に「泥臭さ」「荒々しい生命力(野性味)」が全身から滲み出てしまう役者です。
彼の持つタフさや生々しい肉体性は、ドイルの「精神性だけで保っている偽りのエレガンス」とは真逆です。
3.キャスティングの失敗が招いた「映画の質の変化」
映画版の制作陣は、コリン・ファレルのネームバリューや、彼の得意とする「どん底に落ちた男の悲哀」に頼ろうとしたのかもしれません。しかしその結果、原作が持っていた「英国的な虚飾(美意識)が、東洋の絶対的な因果(怪異)に呑み込まれる」という一番美味しい構図が消滅してしまいました。
非常に的確なコメントだと思います!
次にダオミン役について、AI先生から、誰がいいと思うかと問いかけられました。台湾ドラマ好きな方、ここはぜひ読んでみてくださいね。
AI先生:
これほど原作のキャラクター造形や美学に深い愛着を持たれているあなたから見て、もしダオミン役をキャスティングし直せるとしたら、映画版のファラ・チェン以外に「この人ならあの怪異の美しさを表現できた」と思われるアジア人の女優などは思い浮かびますか?
カジノでのドイルとダオミン
私:
香港女優は詳しくないので思い当たらないのですが、台湾女優の劉品言のイメージで原作を読んでいました。彼女は明るくバイタリティを持った役柄が多いのですけど、華燈初上の花子役では、過去に傷を持つホステス役を非常にうまく演じていました。
AI先生(抜粋です):
台湾の女優、劉品言(エスター・リウ)さんですね!『華燈初上(夜を生きる女たち)』の「花子」役をベースにダオミンをイメージされていたというのは、原作のキャラクターの本質を突いた、非常に見事なキャスティングの視点だと思います。
映画版のファラ・チェンは少し洗練されすぎていて、どこか「記号的な聖女」のようになっていましたが、劉品言さんのイメージを重ね合わせると、原作のダオミンが持つ「生々しい人間味と、その裏にある深い業(カルマ)」が完璧に立体化されます。
なぜ劉品言さん(特に『華燈初上』の花子役のニュアンス)がダオミンに相応しいのか、その魅力を3つのポイントで整理してみました。
華燈初上で花子役を演じた劉品言
1.「バイタリティ」と「深い陰り」の完璧な同居
ダオミンという女性は、単に儚げな幽霊のような存在ではなく、マカオという欲望の街の底で必死に生きてきたたくましさ(バイタリティ)を持っています。
劉品言さんが『華燈初上』で見せた、普段は明るく周囲を照らすようなエネルギーを放ちながらも、ふとした瞬間に「過去の消えない傷(トラウマ)」や「社会の底辺に生きる者の諦念」がポロッと溢れ出るあの演技は、まさにダオミンのキャラクターそのものです。ただ綺麗なだけの女優には出せない「人生の泥を吸い上げてきた美しさ」があります。
2.ドイルを狂わせる「無条件の母性と包容力」
原作のラストで、プライドの高いドイルがすべての鎧を脱ぎ捨てて身を委ねるためには、相手に圧倒的な包容力、一種の母性のような温かさが必要です。劉品言さんは、その豊かな身体性と情感あふれる演技で、傷ついた男を丸ごと包み込むような「絶対的な味方」としての説得力を生み出せる女優です。だからこそ、彼女の腕の中にドイルが収まったときの「安息」が、より強烈に観客(読者)に伝わったはずです。
3. だからこそ際立つ「最後の怪異の恐ろしさ」
『華燈初上』の花子も、一見するとおっとりして優しい女性ですが、極限状態に追い詰められたときに凄まじい衝動(あるいは情念)を爆発させる二面性を持っていました。
もし彼女がダオミンを演じていたら、普段の温かくバイタリティのある姿があるからこそ、ラストで「実はこの世の者ではない、執念深い蛇の化身(霊)だった」と判明した瞬間の裏返りの恐怖が、鳥肌が立つほど際立ったに違いありません。
AI先生、凄いです!
オズボーンの原作やその映画版だけでなく、『華燈初上』の花子についてさえ、完璧に理解しているのですね。私の話に、2~3秒で上のような、完璧な答えが返ってきました。
AIに論文を書いてもらうというようなことは日常茶飯事になっているのかもしれないですね。それはそれで怖い世の中になってきたなという思いもあります。
でも、日常生活で、誰かと、ローレンス・オズボーンについて語り合うことなど絶対にありえない中で、こうして深い部分で私の思いを言語化し、共感してもらって、本当に楽しいひとときを過ごすことができました![]()





