場のほう

コンテンツ


というのは、


ネドじゅんさんの言葉です。



わたしたちは、本来


「場」のほう

なんです。


でも

「コンテンツ」のほう


ばかり見ている



「コンテンツ」は、「場」に現れている現れ



例えば、何かの出来事が繰り返され、その出来事にうんざりしている場合



人は、出来事をどうにかしようと試みます。



あれこれ、どーしたらいいか?と試行錯誤



だけど



それって「コンテンツ」なんです。



根本解決をしたいなら



「場」のほうにいること



「コンテンツ」をどうにかしようとしないこと



なんです。



「コンテンツ」を「コンテンツ」がどうにかすることは不可能なんです。



正に、



鏡🪞を見ているわたしが、鏡の中のわたしをどうにかこうにか笑わせようとしているだけ



鏡の中のわたしを笑わせたいなら、鏡に写っている外側のわたしが笑えばいいですよね。



でも、わたしたちは、鏡🪞の中のわたしをどうにか笑わせようと奮闘する



例えを聞けば、そうだ!と思っても、

実際の現象には、「コンテンツ」を扱っている



人間関係であれば



コミュニケーションをどうにかすれば、解決すると思っている



コミュニケーションも「コンテンツ」



そうではなく、



「場」のほう



もし根本解決を望むなら



その映画を写している映写機のフイルムを🎞️変える必要がありますよね。



フィルムを変えずに、映画の中の主人公が映画の出演者を変えようとしても、出演者の方は、フイルム通りに演じているわけです。



それは、フイルムが変わらない限り、続くのです。



フィルムを変えるには、映画を見ている人の内側に変化が必要です。



なぜその映像を見ているのか?



わたしの何がその映像を見せているのか?



その根本を見ていく




それが、本当の根本解決




「コンテンツ」では、「コンテンツ」を変えられない



場のほう



なんです。




変容を起こすのは、いつだって



「場」のほう