福岡市立博物館に「シャガール~ロシア・アバンギャルドとの出会い」展を見てきた。


高校3年生の時、地元の美術館に来ていたたった一枚のシャガールの絵を見て

あの画面全体に感情が飛び交う絵に魅了されて以来ずっと好きだった。


ところが大学生のころ本屋で「シャガール」の本を手にとってみたのだが、
何かいまひとつピンと来ずたいした理解もないままになっていたのだ。
(往々にしてあの手の本は、素人向けの手軽さの割りにわかりにくく

肝心の作家の魅力が伝わってこないからあんまりよろしくないと思う。

まぁそういう本を選んだ私も未熟だったのだろうけど。。。)


あれからもうすぐ10年。(!!!)


今回たまたまタイミングが合い、

一人導かれるかのように地下鉄に乗り込んでは

気づいたら大濠公園のたもとを足早に歩いてた。


私が美術館に着いたのは午前10時すぎ。

開館は9時半ということだったが会期中最後の日曜日ということもあり、

すでに館内は結構な賑わいをみせていた。



いつも楽しみにしているミュージアムショップの物色もほどほどに早速中へ。


東京のゴッホ展に行って以来、

音声ガイドはチケット代に500円上乗せしても使用する派だ。


説明ボードには書かれていないことも聞けるし、

素人目で見て回るより、ずっと絵を味わうことができる。


今回は女性のアナウンサーのみのバージョンと、

女性のアナウンサー+DAIGO…?の2種類があった。


ゴッホ展の時はちなみに安住紳一郎で、

果たしてDAIGOが何を喋るんだろうと疑問に思いつつ
とりあえず試しにDAIGOバージョンを選んでみた。

TVの喋りどおり、あまりのDAIGOっぷりに正直驚きつつも

まぁ最初の何分かは問題なかった。

順調に女性アナウンサーが解説を続ける。



と、その時!!!!



突然ヘッドフォンからノリノリのDAIGOの雄たけびが!!!!!


「ここで~DAIGOチェーック!!!!」

「俺は絵画とかそんな詳しくなかったんすけど~この絵を見た瞬間~

絵画って自由って思ったクライ~ム☆!」


クライムってなんだ…???笑

その後もことごくシャガールの大作の前で


「DAIGOサプラーイズ!!!!!」

などと割って入ってきた。


並々ならぬ違和感に一瞬竹下元総理の顔を浮かべつつ、

こちらも必死でシャガールの人生を追っていたから

真面目に情報として聞いていた。


来場者の3割くらいの人が音声ガイドを利用していたようだったが
おそらくみんな無難にアナウンサーのみの方を聞いてるんだろうな~

と思いつつ。

しかしたまたま自分のガイドを止めてときに

前のガタイのいい男性のヘッドフォンから

ノリノリのDAIGOの声が漏れ聞こえてきて

思わず赤面してしまった(笑)


落ち着いた女性アナウンサーの声とは裏腹に

DAIGOさんのような若い人の声は実によく漏れるものだ。

それでも解説の中の

「フォーヴ的作品の“フォーヴ”とは“野獣”のことさ!!!!!」

など素人では存じ上げない単語の意味を

教えてくれるのでむげにはできず。。。


それ以降、私は自分のヘッドフォンのボリュームを

最小限にして聞いていたことはいうまでもない。



一方展示は素晴らしかった!!

シャガールが生まれ育ったロシアのヴィテブスク時代から順に追っていく。


シャガールの若い頃の作品とともに同時代の画家ゴンチャローワやラリオーノフ、
カンディンスキーやマレーヴィチ、プーニーなど、

ロシアアバンギャルドという一つの絵画のジャンルを
確立した作家たちの作品が軒を連ねる。


私はまったくの素人なのでわからないけれども、

名前を聞いたことがある画家もない画家もいた。

彼らは互いに影響しあい、時に相反しつつも

シャガールの創作人生の中で
大切な存在であったことに間違いない。

皆、真面目に熱心に取り組み、圧倒的なパワーで

新しい文化を紡ぎだしていた。


専門知識を学んだ人以外、

その意味を知り得ないような美術用語も

シャガールの歴史とともにその意味を知る。


シャガールが生きている間に故郷ロシアは

社会主義国家へと移行するのだけども、

ロシアという国のお国柄や時代の変化についても考えさせられた。


私が今まで何気なく好んで見ていたデザインも

北欧デザインでなくロシアアバンギャルド的な要素を

含んでいたことにも気づかされた。

なかでもシャガールの教え子だったというプーニーの
絵画と立体をないまぜにしたような立体未来派と呼ばれる作品は
時代の「変化」とそれに傾倒する画家の「情熱」を

クールに表現しているようで面白かった。



今回の展示は、シャガール自ら

「影響し合った同時代のロシアの画家たちとともに並べてほしい」

と生前語っていたというコンセプトを元に構成したという。



確かに、シャガールという世界的な画家の一生はもとより

もっと体系的な理解を進めるすばらしい展示だった。

一人の画家と時代背景、同時代の作家たちが

魂を削って確立した美術表現の成り立ちと

ロシアという国の閉鎖性ゆえに個性的な表現…


100年先の人間がわかるようにとメッセージを残した

シャガールの指導者としての力量にもビックリだ。



そしてなんと自由で軽やかで繊細な感性の持ち主だったのだろうか。
その個性を後世まで人々にエネルギーを与え続けられる形で

表現しきったことにただただ脱帽するばかりだ。



おそらくシャガールはアーティストとして割りに常識人だった。

貧しい家の出身ながら、

後世の芸術家育成のために故郷に美術学校まで開き、
アーティストによくある破滅的に精神を病むことも

新しい愛の刺激を求めて女性から女性へ渡り歩くこともなく、

ベラという女性一人を愛し、先立たれ茫然自失となりながらも

悲しみを乗り越え新たな創作を続ける。


シャガールの代表作と称される絵に

たびたび登場する鳩や道化師たちが

その悲しみを象徴していることや


せっかく設立した美術学校をマレーヴィチに席巻され

人知れず自分はパリへ旅立ってしまうところなどとても共感する。


多くの成功者が持つ絶対的自信があったわけでもなく、
ただ正直に信じるもののために生きようとした。


後に描いた代表作「日曜日」はベラの死から立ち直り、

一人の愛すべき女性と出会えた喜びに満ち満ちたものであることも

一人の人間として驕りのない純粋なシャガールの人柄がうかがえる。




今までの図録など買ったこともなかったが、

今回は迷わず購入!



興味があるものにしか耳を傾けられない私だが、

シャガールの魅力によって得たものは大きかった。


シャガールとともにその時代輝いた画家の存在も知りえた。

それは先日ピアニストの中村真さんが
「世界的に有名ということと

世界的にうまいということは必ずしも一致しない」
といっていた言葉の一節を思い出さずに入られなかった。



初めて訪れた大濠公園もたくさんのマラソンランナーが居て、

公園の脇にスタバがあって景色を楽しんでくださいと

言わんばかりの立地はさすがだと思った。


そんなコンセプトで世の中経済が回っていったら

どんなに世界は幸せだろうか!


知識と体験、そして過去の自分の興味に

満足いくこたえを得たとても貴重な時間だった。














































今月はなんだかなぁ、なんです。


なにがなんだかなぁ、かっていうとまぁ色々つまらないことが積み重なっております。


まず仕事ね。


ある仕事で校正がめちゃくちゃ入るんです。


取材者によって違うけど、今回ことごとく赤入れされてまして。。。

フリーという立場だけに責任を果たせているのかー!!!!! 担当者の方の面目丸つぶしんみしてるんじゃーって

ちょっと弱気になってます。。。。


まぁ慣れてないから、人それぞれ違うからって自分で自分を慰めてみるものの…

この仕事やってる限りこういう悩みは尽きないんだろうなー  はぁ~


徐々に強くなるしかない「普通のこと」なのです。



そして自分の人生のベクトルは常々悩む。

そんなもん悩んで決めれるんだったら幸せなんだろと思うけど、


みんな嫌がおうにも従うべきベクトルにひっぱられて頑張らされてるわけで。。

自分がやるかやらないかなんて関係なしに“マスト”事項を背負っているのだろう。


こんなことを考えるのも、

絵を描いてる知り合いの個展を見に行ったからっていうのがあるんだけど。


そこにある作品とよべるものを作り上げるために

彼、彼女らはきっと何十時間、何百時間?という時間を割いてきたのだろう。


それが良かろうが悪かろうが、少なくとも彼らのベクトルは時間をかけるだけ

力強くそちらに向かっている。

私は文章も描くし、絵も描くし、時代にも家庭にも目を向ける。

人生経験という意味で幅はあったとしても一つひとつのベクトルは明らかに細いだろう。


これが私を焦らせる。


やらねばならない必須項目を抱えていることは嫌いではない。

そして今に後悔をしているわけでもない。


でもすでに私の気持ちは今より遠くにあって

何をすべきか、何を考えるべきか、常に自問自答の日々ー。



なんだろう要するにぶちまける場所が欲しいのかな~

でも家で仕事する以上ここは強化して、ぶちまけず全部気持ちのモヤモヤに

目をつぶっていられるようにならなくちゃいけないとも思うのだ。


気にせずワーッて喋れる友達がすぐ傍に居てくれるとは限らないしね。

ちゃんと自分なりの処世術をみにつけなきゃいかん。

大人なんだから!


そのとき自分は何を見ようか、何をしようか。

絵を描くこともまだ自分にはハードルが高い。

買い物をほどほどにしなきゃならない。

弱音を吐くのはなるべくしたくない。



結局無作為に描くという行為がやっぱり私にはあっていると思い知り、

絵を描くことにうつつを抜かしてる場合かと思わないでもない。

他者の目を意識すればするほどそうだ。

みな口では綺麗ごとを言っても結局みんな足元を見たがるから。


ないかもしれない才能でも、思い込むという強気を武器に

いっそすべてのベクトルを投げ捨て何か一つのベクトルだけに熱中できたらいいのに。


するとまた

「人間はバランスだ。個性はそうして生まれるのだ。」

と違う私が言う。。。


言う。

あ~


そしてまた私はベクトルに悩む(笑)


余裕が欲しい









一向に無意味のように思う。



もちろん人生における目標は大切だ。


元来怠け者の性分を奮い立たせてくれるから。


それに向けて努力することで思わぬ副産物を得ることもあるから。


というかむしろそっちの方が人生を豊かにしてくれる


エッセンスとして有効だったりするであろうから。



でも、それとは別に抗えないことも人生には多々ある。


それが自然であったり、生命であったり、一人の人間がコントロールしえないものの類。


どんなに日ごろから努力してても損得勘定働かせてても、


予期せぬことは必ず起こる。その可能性は誰にでもある。



そんな時、強くいられる人は素晴らしいと思う。


そしてそんな局面に接した人は、普段の生活の中で悩んでも悩んでも見ることの出来なかった答えを


乗り越えた末に自然と体得してしまうのだと思う。



かくいう私が何か不幸があったとか、


そういうわけではないのだけれど、


人の強さや人生に対する決意を垣間見る内そんなことを思うようになった。


自分はそのとき状況を冷静に受け止めることが出来るだろうか?


平常心ではなくとも日常の生活を支え続けられるだろうか?


人に意見することはいくらでもできる。


思いやる心があれば痛みを共有することできる。


でも、実際にかける言葉もない、といった現実が目の前にあったら、


たやすく口は開けないだろう。


それがさらに自分ものとなった時には、果たしてどうなのだろうか。



安心と油断は紙一重だ。



日々前だけを見て暮らしているのだけど、


それだけで何もなければ十分幸せなのだろうけど、


ネガティブに後ろを振り返るとかでなく、


人生の暗い部分にも恐れず目を背けず強くあれる自分でありたいと願う。



そのためには何を大切にすべきなのか、ということを見誤らぬように。