一人で店をやっていた80歳の母が、
3月に胃を全摘出。

この先、店をどうするか、母の生活をどうするか、
帳簿とにらめっこをしていると
モーさんというおじいさんが売上の大半を占めている。
でも、入院しているのか、しばらく連絡が取れないらしい。
私がお見舞いに行こうかというと、母が自分で行くといいはる。

モーさんは隣の県に住んでいるので
もう少し涼しくなったら行こうと母を説得すると
「そういえば、マスターも最近来なくって」
と言い出した。

マスターは16年前、父が病気の時も毎日見舞いに来てくれ
亡くなってからも、ほぼ毎日母の様子を見に来てくれた
スナックのマスターだ。
もう30年くらい前からの常連で、私もよく話をした人だ。

それじゃ、今から行こうか、ということになり、
タクシーに乗り込んだ。

 




開けるとベルがなる扉を押すと、
薄暗い店の奥に、カウンターとカラオケのモニターが見える。
マスターが一番奥にこちら向きで座っていて
誰?という顔で私を見た。
私はまだ手は扉を押したまま少し前屈みで
「こんにちは、明文堂です」と言った。
マスターは
「よ!」っと右手を少しあげた。

母とマスターが喋っている間、
オノ・ヨーコみたいな短いおかっぱのおばさんが
調子っぱずれの曲を歌っていた。


マスターに一曲リクエストした。
昔流しの歌うたいをしていた声量は普通の人くらいになっていたけれど、
長山洋子の「じょんがら女節」を歌ってくれた。


マスターは次の日からまた入院するそうだ。
「オレの方が先に入院してたんだぜ。
 それをこの人が途中から入院して先に退院しちゃったから」
膝の上に置かれた手に私の手を重ねた。
厚みのある白い手は前と変わっていない。

帰省するといつも、うちの店先にいたマスターに
また店で会うことがあるのだろうか。
「またね。ありがとう」
なかなか捕まらなかったタクシーが迎えに来て、店を出た。


(了)