柴田錬三郎の小説「眠狂四郎」を読んでいるが、こんな記述に出会い勉強になる。

 

 

73人のお坊主が「佃島」に潜んでいる場面があった。

 

私のブログに再三登場する墨田川下流の勝鬨橋の東は「月島」、その奥に「佃島」がある。もんじゃやきで有名なところである。

 

 

ここが大阪と関係することを若い頃の友人M君から聞いたことがある。その詳細がでているのです。

 

引用しておこう。

 

 

「佃島は鉄砲洲に沿う小島である。その昔は向島と言われていた。家康が遠州浜松城にいた頃京都に上る途上で摂津の国の多田なにがしと住吉大明神に参詣した時、佃島村の漁夫が神崎川の渡しに船を提供し、また食前の肴を奉った家康は江戸城を定めてから佃島村の漁夫34人を出府せしめて江戸湾内の漁業権を与えた。」

 

 

徳川家康が京都に入るルートに神崎川を通ることは私は初めて知った。更に引用をつづけます。

 

 

「これらの漁夫の子孫たちは寛永年間の鉄砲洲の東の小島を賜って向島を故郷の佃島村の名をとって「佃島」と名付けた。江戸城には毎年11月から3月まで白魚をとって献上する掟が設けられ、その間は漁夫たちは他の漁(りょう)を禁じられた。

この掟によって四つ手網で白魚をとるのは佃島の漁夫の特権になり、他の浜辺の漁夫は遠慮した。従って佃島には佃島村から出府した漁夫の子孫のみがところ笑顔に住み着いて他国村を寄せ付けなかった。」

 

 

家康の恩に報いる性質が分かる。更に引用をつづけます。面白い事実があるのです。

 

 

「ただ弥生の潮干狩りには大奥から女中たちが沢山の船で渡ってきて春の一日を興じた。一般庶民は大奥を憚って佃島にはやってこなかった。いわば佃島は漁夫たちの天国であり、・・・・」

 

神崎川の流域に「佃島村」が現在のどのあたりか、今後調べてみたいと思う私です。

 

 

写真 先週のNHKラジオの山カフェの中で、東北の早池峰山の「ハヤチネウスユキソウ(日本のエーデルワイス)が咲いていたとリスナーの投稿がつたえられていました。私の撮ったハヤチネウスユキソウです。