長女の高校時代からの友人のブログにこんな記事が目に止まった。

富田林市にいい古民家がありました。…富田林市は京都から遠かった。」

私は地名にこだわりがある性格です。

富田林市は大阪の南東で、北摂からも遠く、これまで一度も行いったことがありません。なぜこだわりがあるかというと、昭和30年の後半から40年の前半にかけて、西宮市の神垣町の独身寮にs住んでいた頃、先輩が結婚され家を持ったところは新たに開発されてきた住宅地で、都心から離れたところで、その一つに富田林市があったからです。

私の知る範囲ではPL学園があるところ、近鉄の長野線が走っている、歴史上の楠木正成の千早城があったところくらいです。

最近のニュースで、地元を走る金剛バスが運行のコースや本数を削減するとか、人口の減少が伝えられていた。

私の最近の知識でわ、司馬遼太郎の「街道を行く」の大和朝廷の頃の大和と難波を結ぶ街道の周辺だったのだろう。奈良と大阪の県境の生駒、葛城、金剛連山の峠「竹ノ内峠」にも繋がる。


ブログの友人が「京都から遠かった」と云う感想はそのとおりでしょう。

そんな距離を吹き飛ばすように、中世の時代、楠木正成は足利尊氏との戦いに、南河内の千早赤阪からなら、京都を通り、大阪府の島本町にある西告街道の「桜井の駅」で、わが子11歳との別れをし、西に向かいわが町芦屋の楠町を抜け、神戸の湊川で足利尊氏と戦い戦死するのだ。

昔の人たちはよくあるいたものだと、富田林から思いが広がっていった一日でした。
写真 富田林の写真がない。西国街道に関連して、芦屋の国道2号線が芦屋川にかかる「業平橋」にしました。