私の書斎から(と称した勉強部屋で書斎というほどのものではありません)眺められる景色なんですが、街中の道路が見渡せるのですが、すぐ先に十字路があります。



昨日、埼玉・川越市でパチンコ強盗して、市内の住宅街の駐車場で車に立てこもり自殺をした容疑者が、警官とのにらみあいの中で、「おれの人生は終わった..」と言っていたと報道されていました。


容疑者は過去にも誘拐事件を起こしていたということですが、一体どんな人生を歩もうとしていたのか、どこで人生の道筋を間違えてしまったのかと考えてしまいました。



世の中に犯罪者やそれに準ずる悪人って沢山いると思いますが、私は仕事柄、こどもたちと接する機会が多く、関わったこどもたちが悪い大人にならないで欲しいなあと切に願っています。



犯罪を犯す人も、不幸にも被害に遭ってしまう方も、みんな生まれてきて無垢な頃があったはずなのに、人生

の十字路に差し掛かり、まっすぐ歩く人、道を塞がれてしまう人、道を間違えてしまう人と分かれてしまう悲哀を感じました。



ちょっとなんか暗いなあ...。

なんかいいニュース拾えませんかねえ。


以前、『動機』の記事んときにも書きましたが、趣味の話です。



昨日、夜に研修があり、グループワークで自己紹介をしていたときの事。


自己紹介するときに、「趣味は...」とか言って切り出すでしょう?



私、趣味がないのです。


その研修で先生が解説されていたのですが、趣味(の定義)とは、“ある種の継続性があり、思い返しができるもの” をさすらしく、“あたま”と“からだ”と“こころ”において、くつろぎや気晴らし、発達的、創造的、感覚超越的に段階を踏んでいく事...というような風にお話しされていました。ハイ。


なにやら難しい解釈で正確ではないかもしれませんが、“ある種の継続性がある”という点では、たまに旅行に行くとか、たまに映画を観るなんてことは、くつろぎや気晴らしにはなるけれども、趣味と言えるほどのものではないというように私は理解してしまいました。


まあ、解釈はどうにでも取れるのですが、自己紹介の時に、改めて「趣味は...」と言って自慢するほどのことは、これといってなく、「私は趣味がない人です、あえていえば仕事が趣味です」なんてつまらない自己紹介をしてしまい、同じグループの人から、失笑されていました。


たまにしかやらないことが趣味として認定されなければ、私にとっての唯一の継続性があるものは仕事しかありませんのよ。


先生はこうも言っていました。


仕事の趣味化、趣味の仕事化も成り立つと。



もともと飽き性なので、いろんなことをやっては続かなかったので、救いようのない無趣味状態ではないのですがね。


でも色々継続していけるよう、ブログも記事を書き続けれるようにしていきたいと思っています。

以前から、ブログネタに書こうと思っていたことがあります。


例えば、私が外出して、街中で、デパートでも公共機関でもお掃除しているおばさん(あるいはおじさんでもいいのですが)を見かけると、そのおばさんの生活背景を勝手に想像して、それでいて感謝の念を抱いてやみません。


我々が休日に遊んでいる頃に、掃除のおばさんは、いろいろなところを一生懸命掃除してくれています。


(ここからは私の勝手な想像の域を超えませんが)

生活費を稼ぐためでもあろうし、そこには病弱な夫がいて、休みなく働いている人もいれば、孫のものを買ってあげようと小遣い稼ぎで働いていらっしゃる方も入ると思います。


ひょっとしたらもっと苦境に立たされている方もいるかもしれません。


私もたいがいの掃除好きではありますが、公共のどこの誰が吐き捨てたかもしれないガムやタバコなどをきれいに取り除いてくれ、仕事とはいえ嫌な顔もせず(嫌な思いはしていると思いますが)一所懸命作業している姿をみると、涙さえ浮かんできそうになります。


それに引き換え、街中にはタバコ(ひどいときには火のついたものさえ落ちている事があります)などポイ捨ての多い事。捨てようにも横浜市にはゴミ箱が設置されていないことが多く、そういうものを一手に引き受けてくださっているのが、お掃除してくださる方々だと思っています。


朝早く、駅前を通るとお掃除してくださっているボランティアの方?がいたりして、その横を足早に掛けていく私などを含めたサラリーマンなんかは申し訳なく思う次第です。


たまに議員さんが街頭演説しておりますが、一瞬で駆け抜ける通勤者に何か問うよりも、掃除している姿をPRしたほうが支持を得るのではないかと思ったりします。


話が横道に逸れましたが、なにせ掃除のおばさん(おばさんという言い方も失礼ですが、愛称として)は、私は陰ながら尊敬しています。



ちょっとこの話、つづけます。