夫と日本で一緒に暮らし始めて数年後の

2013年に、私達は初めて二人で

ネパールに帰った。


そして、その時に見た義父の姿が

最期となってしまった。


その3年後のネパールの父の日の数日後に、

義父は亡くなる。


とても急なことだったため、夫が一人で、

帰国することとなり私は日本で留守番。


ヒンズー教では人が亡くなると直ぐに遺体を

火葬するため、

夫がネパールに到着した時は義父は既に

荼毘に付された後だった。


夫はヒンズー教の習慣に従い、

髪も髭も剃り落とし、

兄たちと一緒に13日の喪に服した。


喪中は故人の息子たちが、縫い目のない

布を体にまとい、一室に籠り

外部との連絡を遮断する。


夫と話しができたのは、夫がネパールへ

経ってから2週間後のことだった。


「お父さんだけど、亡くなるまで、君の

セイコーファイブを身に付けてたってさ」

 

その時、私は2013年に最期に義父が、

「お前たちが帰る飛行機が落ちないように

神様に祈るから」


と、言ってくれたのを思い出した。


私が思う以上に、義父は私達を

思っていてくれていたのかも知れない。


絆って見えないものだなと思った。



義父のくれた金の指輪を

カナダに住む甥っ子の嫁に、 

譲らなければならないな。


それは、子どものいない

私達にとっても、バブラルおじいちゃんや

義父のことを後世に引き継ぐ役割が

あることを感じさせる出来事だった。



↓2013年の時の義父と夫