Embody "I am that I am" with joy
――自分が何者であるかを慶びと共に体現し、肉体(體)があるからこそ体験できる喜びと、五感で感じ取る体験を大切に享受する時。
…私が居ようが居なくなろうが、世界は何も変わらず廻っていくのだから。

本日、約10年ぶりに再会した仲間(人生の大先輩)と小旅行をして、五感を存分に使って楽しい時間を過ごし、改めて感じたことと、最近の頭と心にあった考えを言語表現してまとめてみます。
(Twitterの投稿を継ぎ接ぎしているので、支離滅裂な文章になっている気もしますが、ご容赦ください。)

有り難いことに現在、私の職業(肩書)と言えるものは、下記の通り複数あります。
・ヨガインストラクター
・英会話講師
・学習塾の副塾長
・大西つねき事務局

・飛騨地域通訳案内士
・レイキヒーリング師範

どれも全て自分の意志で選び、やりたくてやっていることで、その仕事に対して対価をいただいているという恵まれた状況です。

まさに、映画『カンタ!ティモール』の「いのちがよろこぶ仕事」です。

各仕事によって脳を切り替え、全ての仕事に覚悟と責任をもち、真摯に丁寧に全うするようにしていますが、各仕事に共通している有り難いことが、「自分の信念に基づく言葉を直接届けられる場があること」です。

そして、この数年間、対面でもSNSでも、政治の本質や哲学、表裏一体やフラクタル論、大西つねき氏や内海聡先生の考え・思想などを伝え続け&綴り遺してきましたが、ご縁をいただく(継続的にヨガクラスや英会話講座に通ってくださる)方々には、ちゃんと伝わっているなぁ…と有り難さを感じる瞬間が増えてきました✨
(というか、ご縁が無くなった人は参加されなくなり、本当に気に入ってくださっている方々のみが定期的に通ってくださるようになったのだという気がしています。)

同時にその反面、ほんの1ミリも理解してもらえない人がまだまだ大多数であることを絶望的に感じる瞬間もあります。

私が培ってきた知識や文章表現力は大して特別なものでも何でもなく、誰にでも出来ることだと思っているのですが、最低限の基礎知識が無い人や価値観が正反対ほどに異なる人には、どんなに伝えても掠り(かすり)もせずw、特に上記の思想や哲学を純度高いまま届けることがいかに難しいかが身に沁みて解る時があります。

これは善し悪しではなく、何年も縁が続いていた人でも、急に全く相容れない世界線にパキーンと分離してしまい、明らかにもう交わることすら出来ない所にいるのだなとも最近は感じます。…そうならないことを兎に角 願って、信じて、数ヶ月前までは必死に伝えてきたのですが、もうそういう人たちとは宇宙の采配で自然に引き剥がされてしまっているような感覚がします。
SNSの世界だけで生きているネット民もそうですが、リアルの世界でも…その分岐点は越えたのだということが明らかだということが直感的に分かるのです。

『葬送のフリーレン』の「黄金郷編」で、人類と姿が似ており人類の言葉を話す魔族とは、喩え彼奴等が人類との共存を望んでいようとも、決して交わることはできない、対話で外交など出来る筈が無い、そもそも悪意や罪悪感、感情・心理などを持ち合わせていないのだから当然だ…というような描写がありましたが、まさにそれと同じような感覚です。
魔族と言うのは失礼ですが、それほどまでに、別の種類の生命体かと思うほど、相互理解や共存など到底出来やしない世界線に来てしまったのかもしれない…と感じる瞬間があります。

だからと言って、毎度ながら矛盾するようですが、そういう相手であっても切り捨てることは出来ない性分なので、葛藤することも相変わらずあります。
簡単にさよならが出来るなら、厄介な政治活動にわざわざ関わったり、人と直接関わる仕事を選んだりしていませんから。(笑)
ただ、以前より潔い"諦め"はついてきたのかも知れません。

だから、フリーレンと魔族並みにw伝わらない人たちのことは、別に嫌いになるわけではなく、「貴方はそうなのね、分かりましたよ」「まぁそういう意見もあるよね」と、否定も肯定もせず"受け容れる"ようにしています。

「主義や主張はそれぞれあって良い。他者の違いを否定するのではなく、自分たちは自分たちに正直であり続け、その思いを真っ直ぐ届けること」と、ONE OK ROCKのTakaさんも仰っていました。

ただ、自分の主義・主張が一切無い「付和雷同」状態には危惧を抱いていますが…。

大きな"許し"で、違いを受容・許容する広い心が必要な時。
自分の"正しさ"を信じ込み過ぎると、違う主義や・主張が許せなくなり、それが攻撃や諍い・戦争に発展することだってあります。

ただ、立場によっては、然るべき厳重な措置を取る必要がある時もあるでしょう。
『葬送のフリーレン』の魔族について書きましたが、大西つねきさんの「丸腰宣言」(←私は尊重していますが)が通じるのは、あくまで相手が同じ人間であった場合、というのが私の意見です。人間の姿をして人間と同じ言葉を話す魔族やレプタリアンに、丸腰の思想を体現するのはさすがに難しいだろうと思っています。人間を喰おうと大口を開けているワニに丸腰で対面しても、喰われるだけですからね。w(私はそれでも争わず丸腰を貫く気がしますが。)
では、武器を持って対抗するのか?という意見があるとしたら、それは全くの論外で、論点の掏り替えに過ぎない。
では、純粋な血が通った人間かどうかをどう判断するのか?と聞かれると、正直難しい。
持論では、感覚を研ぎ澄ませ、見聞きして得られる情報以外を知覚できる直感力と直観力(本質を見極める力)を鍛えることで、その実現に近づくだろうとは思っています。(これも綺麗事かもしれませんが。)


冒頭に戻りますが、"I am that I am"とは、肩書のことではなく、無理にお役目を見つけろと言っているのではなく、自分自身がどのように限りある命を輝かせて生きるか・死ぬか、という哲学だと考えています。

「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」
私自身も、もはや死をも受け容れています。死が目前にあると思うからこそ、今という瞬間瞬間の命を輝かせることができるのです。

世界は目まぐるしく激変しているように見える過渡期とも言えるでしょうが、悠久の宇宙の歴史において、人類に必要な気づきを促すため、地球で必然的に起こっている"破壊"の真っ只中ともいえるかもしれません。

日本の政治・社会情勢と"破壊的な現状"にフォーカスすれば、絶望的に見える人も多いでしょう。

ただ、"絶望的状況"も"希望的現状"も"真空"も、同時に"今"に集約されて存在しているような感覚もするのです。
(ここから更に不思議な話に突入しますw。)
それは、『葬送のフリーレン』の「黄金郷編」後の数話(現在113話まで)を読み、ちょうど体感していたことともシンクロするように感じたことで、時間の概念についてです。
時間は過去から未来へと流れている、というのが一般的な考えでしょうが、

そもそも"過去"も"未来"も無く、"今という現在地・現時点"に複数の世界線(パラレルワールド/タイムライン)が同時に存在している、という捉え方が、最近の私はしっくり来ます。

そして、実体がある状態で、もしくは意識次元で、瞬時に(というか、"時間"が掛かることなく)別のタイムラインに移動したり、戻ったり、ということを繰り返している、という感覚がしています。

 

(そして、昨年の夏至から冬至、冬至から立春などは、もの凄いスピードで時間が早送りになって進んでいるような感覚がありましたが、今月(5月)はなぜか時間の進みが非常にゆっくりな感覚がしています。1日1日単位では速いのですが、まだ5月が終わらないのか…という不思議な感覚です。笑)

私たちが肉体をもって生きているこの物理次元において、"今という現在地・現時点"を感知できるのは、五感を使って得られる体験そのものです。

その体験は、どうせなら、楽しい方が良いですよね。

美しく壮麗な景色を見たり、耳心地のよい音や音楽を聴いたり、自然の爽やかな香りを嗅いだり、美味しいものに舌鼓を打ったり、心地よい風を感じたり、気持ち良い温泉に浸かってゆったり過ごしたり…
残された時間は、そんな喜び/慶び溢れる体験を楽しんだらいい…
そんな時間も自分に"許可"する時と言えるかもしれません。

 

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