アドラーは、原因論ではなく、目的論に根差して、人は行動、選択をすると考えます。
そして、その選択は意識的なものと無意識的なもの、両方を含みます。
無意識的なものとは、潜在的に「あれしたい」「これしたい」という欲望から、不思議とそのように行動をとってしまうということばかりでなく、内臓の働きすらその目的に沿ってしまうと言われています。
私たちは通常、胃、腸などの消化器系や心機能は自律神経に調整されているため、意思とは無関係に働いている、と考えます。「心臓、止まれ!」と念じても決して止まりませんよね(止まってしまったらえらいことです(^_^;)笑)
ところがアドラーは、そういった臓器の働きでさえ、当人の目的を叶えるために働くと主張します。
『人はなぜ神経症になるのか』(アドラー著)の中に、
「臓器の機能はライフスタイルに支配されている。このことは特に肺、心臓、胃、排泄機関、性器に当てはまる。これらの機能の障害は人が目標を達成するために取っている方向を表現している。このような障害を私は『臓器言語』と呼んできた臓器は分割できない個人の全体の意図を表現豊かに明らかにする」
とあります。
ところで、この文章の中に「分割できない個人」というワードがありますが…
アドラーは、自らの心理学を「個人心理学」と称しました。
「個人」とは英語にすれば"indivdual"であり、dividual=分ける、in=否定の接頭語ですので、「分けられない」という意味になります。
私たちの中には
意識‐無意識、身体‐精神
という一見した対立構造がありますが、これらは見かけだけであり、全体で一つの個人であり、全てで個人を表現する、ということです。
例えば、ダイエットをしているんだけども、ついつい食べてしまうこと、ありますよね?
その場合よく言われるのは、
「痩せたいけど欲望に負けて食べてしまった」ですが、
アドラーに言わせればそうではなく
「あなたという全存在が食べたいと思っていた」
となるでしょう。厳しいですが…(;^_^A
そして、これは疾病を考える際にも当てはまると思います。
以前の記事で、学校に行きたくない子供が腹痛を起こす事例を挙げましたが、まさにこのことだと思います。この腹痛は決して仮病でなく、実際に痛くて辛いのです。だけど、真面目な子供だった場合、サボることは気が咎めるのでしょう。そこで実際に腹痛を作り出し、「学校に行けない」状況を作り出すのです。
こう言われると、身に覚えがある方もいらっしゃるのではと思います。ドキ、なんてね(笑)
そして、はい、私もありました!偉そうに言うことではないですが…(;^_^A
もちろん、疾病の全てを目的論で考えるというのは極端だと思います。しかし、これを無視することもできないのではないかな、と感じます。
また、経絡指圧の大家であり、心理学の講義を受け持たれた経歴がある、増永静人先生の著書『治療百話』に
「心身相関というのは西洋的思考から発したものであって、デカルトの心身二元論をはじめとし、対立する心身の関係を考える立場からの心身医学が構成されている。心と身という相違なる二面が人間にあることは疑いを入れないが、その心身はまさに一如であるというのが東洋思想である。一如とは差別を認めた上での一体である~(中略)~肉体も精神も同じような関係だから、肉体によって表現されない病気はないのだが、肉体だけからそのすべてを説明しつくすことはできないのである。」
とあります。
この記述は心身相関に関する記述で、アドラーの目的論にフォーカスしたものではありません。ただ、疾病を考えるにあたって、精神的、心理的な要素を省いて考えることは本来は不可能であり、治療に於いても心と身の両面からのアプローチが必要であることを説いています。
アドラーが言う「分割できない個人」と、増永静人が言う「東洋思想」、考え方は非常に似通っていると思います。
やはり、疾病には必ず何らかの意味があるのだろうな、と感じます。疾病は、患者さんの望みや思い、それらの表現方法の一つだと思います。
私達は、治療をさせて頂くに際しては、疾病だけでなく、患者様を一人の個人として見て理解し、共感しなければ、何にも繋がらない、と改めて感じさせられました。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました(^^)/
参考文献
『人はなぜ神経症になるのか』(アルフレッド・アドラー著、岸見一郎訳)
『治療百話』(増永静人著)