周りが暗く、集中できるのを良いことに、いい気になって書いてきたらこんな時間。
集中できるのは良いけれど、どうしても物語が内に内に向かってしまう。

物語にはポジティブな何かがないと、僕はダメだと思っている。
希望のない小説には存在理由がない。

変なテンションになるのを好調と勘違いしているだけで、つまり、夜中に書くのはやはりダメということだ。


天気の良い日曜日。
図書館まで散歩しつつ、今日は資料を横に室内の図面と小説で出てくるエリアの地図作りをしていた。

場面がある程度限定されるような ―― 例えば森林の山小屋で起きた密室殺人とか ―― 内容であれば室内図面を用意すればある程度カバーできるのかも知れないけれど、時代劇となると地図と室内図面は欠かせない。
なにせ今の東京とはまったく違う。
品川から上野まで「山手線で15分」と、瞬間移動させるわけにはいかない。
各時代の地図を見比べ、どこに何があって、どれぐらいの距離だったかを測り、移動にどれぐらいの時間がかかるのかをメモする。
図面や地図を作ってから小説を書いてるわけではなく、書いている途中でこんがらがってきたから作り始めたのだが、実際にコリコリと地図や図面を描いていると、想像では気付かなかったことが見えてきたりする。
これがけっこう面白い。

小説なんて娯楽と言えば娯楽だけれど、僕はそういう部分の現実味にはこだわっているからこそ、読む人がのめり込んで読んでくれるのだと信じている。
もちろんその物語が面白ければ、という条件付きだけれど。



いま小説書きとは関係のない市民講座を受講している。
写真に関する講座なのだが、これがなかなか面白い。

写真は文章書きと同じくらい長く続けている僕にとっても重要な趣味の一つだ。
撮り溜めて、機会があるごとに仲間と写真展をやったりしている。

誰かに習ったというわけでもなく、ほぼ独学で続けてきたが、塵も積もればなんとやらで、30年も続けているとそれなりに詳しくもなる。
そんな背景がありつつ市民講座に参加してみたので、講義中に登場する写真的な知識はほとんどがすでに習得していたりする。つまらないと言えばつまらない。
でも、僕が持っているものはどこまでいっても独学で得た知識であって、講義の中でそういう断片的な知識にお墨付きが得られたり、体系化されると「ああ、間違ってなかったんだ」と安心できる。
これが誰かに習うという最大の効果なのかもしれない。

世には文章作法という本や文章講座というものがある。
僕はその類いを読んだことも参加したこともないのだけれど、写真講座を受講してみていちばん感じることは「その類いで上達することはない」ということだ。
講師の教えるままにやったところで、講師の劣化コピーができるに過ぎない。

だからと言って「無駄」ということは決してなくて、自分の作ったものが他者の目に晒される、フラットな評価を聞くことができる、自分の引き出しが増えるという点では参加する意味は深く、多い。

写真なら写真展という機会もあるが、残念ながら小説にはそういうパブリックな機会はないし、文章講座などでプロの文章書きの批評をもらうということも必要なのかもしれない(まあ周りの人に無理矢理読ませても良いのだろうけれど)。

ふと思ったのだけど、写真展みたいにアマチュアが集まって「小説展」なんてのをやったらかなり面白いんじゃないだろうか。
全部を読んでもらうのは時間がかかるから、粗筋やプロット、第一章だけを張り出して、壁新聞のように読んでもらうとか。日替わりで朗読をするのも良いだろう。
そうして自分の目の前で他者の目に晒すことで得るモノはきっと多いと思う。
これだけはネット越しでは得られないものだ(たぶん)。

いや、ふと思っただけです。