ある程度の長さの文章に限らず、TwitterなどのSNSでもときおり見かけますが、まるでポエムのような文章を書いてしまう人がいます。
「ポエム」とは詩のことですが、一般的に「ポエムのような」と文章が形容されるとき、そこにはネガティブな意味が込められていることのほうが多いはずです。
なぜ、ポエムのような文章は受け入れられないのでしょうか。
そもそも、読み手にとって文章を読むこととポエムを味わうこととは根本的に異なります。
読み手はある情報を知りたくて読もうとしているのに、どういうわけか場違いなところにポエムが書かれていて、不覚にも「ポエムらしきもの」を読まされてしまった、と感じるでしょう。
では、本来ポエムを書くべきではないはずのところになぜポエムらしきものを書いてしまうのでしょう?
それは、「読み手と書き手の温度差」があまりにも大きすぎるからです。
おそらく、ポエムらしきものを書いてしまった書き手は文章を書いた瞬間は気分が高揚していて、その感情を読み手と共有しようと言葉を厳選し、工夫を凝らして書いたと考えられます。
ところが、読み手としては「この人は何を言おうとしているのだろう?」と冷めた状態で文章を読み始めます。
読み手は冷め切った状態からスタートしているにも関わらず、とつぜん感情を高ぶらせた書き手に遭遇してしまい、あまりの温度差に面食らってしまうのです。
この「読み手と書き手の温度差」こそが、ポエムのような文章が恥ずかしいと言われる最大の理由です。
やっかいなことに、書き手自身はポエムを書いたつもりは全くないのに、読み手から「まるでポエムじゃないか」と思われてしまうケースがあります。
書き手であるあなたが心を揺さぶられたことや強く印象づけられたことのエッセンスを伝えようと趣向を凝らした結果、「まるでポエム」になってしまうのです。
こうした「ポエム化」現象を防ぐには、読み手の立場になって文章を書くことがとても大切です。
書き手がこれから書こうとしていることについて、読み手はまだ何も知らないのです。
仮に感動した体験について書くとしても、そこに至るまでの経緯について順を追って説明していかなければ、読み手は置いてけぼりになってしまうでしょう。
ポエムのような文章は「読者がおいてけぼり」の最たる例です。
いきなり(書き手にとっての)感動の頂点を見せつけられ、「なんだかものすごく感動しているみたいだけれど、一体どうしたんだろう?」と、読んでいる方が気恥ずかしくなってしまうのです。
つい最近、感動した体験について書くときはとくに注意が必要です。
いったん冷静になって、感動していた自分自身を客観的に見られるくらいまでクールダウンしてから書いたほうがいいでしょう。
文章を書き上げたら、「ポエム化」していないか、いま一度読み返してチェックしてみることをおすすめします。