昔、緑豊かな谷間の開拓村があった(国名は敢て伏せます)。

その村では、ずっと昔から、人糞や家畜の糞、緑肥や草木灰などの自然の肥料を使い、雑草や害虫の駆除は、人手をかけて当たってきた。

ところがある日突然、政府の役人が村へやってきて、新しく開発された化学肥料と農薬を使うように強制した。

村人たちはとまどったが、政府の役人に逆らうことはできなかった。

強制された化学肥料と農薬を使い始めて、4~5年間は少し効果があったように思われたが、6年ぐらいたったころ、全ての作物や果樹から道端の雑草までが枯れ始め、牛や羊、ニワトリまでもがバタバタと死に始めた。

そのうち、村人の中にも、原因不明の突然死する人がでてきたりしたため、皆、あわてて村から逃げるように出て行ってしまった。

その後しばらくして、政府の役人が調査に来たが、結局、鉄条網で村を囲み、人が入れないように封鎖しただけで帰って行った。

ところが、そんな風に廃村になってから、もう10年近くにもなるのに、奇妙なことに、枯れた作物や雑草、落ちた果実、さらに、死んだ牛や羊、ニワトリなどの家畜の死体までもが、全く腐りもせず、そのまま残っているとの事だ。

また、この村を流れている川には、すでに魚が一匹もおらず、河口付近では頻繁に大量の魚が浮くという現象が起こっているが、そのたび、政府の役人が秘かに回収に当たっているという不気味なうわさもある。

おそらく、例の化学肥料や農薬が原因だろうと思われるが、政府はいまだに何も公表しないし(報道管制もしているらしい)、逃げ出した村人が、その後どうなったのかは全く闇の中である。

(極秘ルートから入手した情報です) 

冬山で遭難した山男たちが残した最後の手記 


これは山岳部の、ある先輩から聞いた話です。 

年末から、北アルプスの薬師岳に挑んだ、二人組のパーティがあった。

彼らは運悪く、発生した台湾坊主による猛吹雪とドカ雪のため遭難した。

二人とも凍死に至る経過を手記に残していた。

そこには、思いがけない連日の吹雪と豪雪から、自分が凍傷と疲労で動けなくなった事、相棒は、自分を見捨てて撤退すれば、助かる可能性が高かった事、にもかかわらず、相棒は自分を見捨てることができず、自分と死をともにすることを選んだ事、そんな相棒に、申し訳ないという気持ちと、深い感謝の気持ちを切々と書き残していた。

ところが、奇妙なことに、手記の内容は二人ともほとんど同じで、自分が動けなくなり、助かる可能性が高い相棒までも、自分のために犠牲となって、死に至らしめたとしていることである。

死を目前にして、嘘をついてまで、他人をこれほど美化できるものか、山男の深い、崇高な友情の発露なのか・・・。

ただし、二人のうち、どちらが嘘をついたのかは、ついに分からず仕舞いだった。

新ことわざ辞典 



故事やことわざの伝統的な解釈に、新しい視点を加えさらに深い解釈を試みてみました。



棚からぼた餅 

もともと、思いがけない幸運が転がり込む事を言う。 

しかし、棚から落ちてくるぼた餅を受ける為には、少なくとも、棚の下まで来ていることが必要条件で、何事も最低限の準備がないと、幸運をまねくことは絶対できない


転じて、漫然と手を拱いて、幸運のみを当てにする怠けものを戒める例えとして使う。



ブタもおだてりゃ木に登る 

いくらおだてても、ブタが木に登れるわけはない。 

本来、たいした才能もないもの、おだてられ、有頂天になって、出来もしない事をしようとして失敗する、そのような軽薄な輩を揶揄した例え。

転じて、ライバルなどを、やたらに褒め称え、慢心させることにより、その人を葬り去るといった、陰険な策略を弄する行為の例えとして使う。 



猿も木から落ちる 

猿のように木登りに長けたものでさえ、木から落ちることがあるのに、不慣れな者が、木に登れば、必ず落ちる。

転じて、能力のないものが分を弁えず無謀な企てをすることを戒める例えとして使う



猫に小判(同、豚に真珠、馬の耳に念仏) 

従来の解釈では、値打ちが分からないものに宝物を与えても感謝されない、無駄な行為の例えとされる。

転じて、当人(猫や豚や馬など)にとって何の役にも立たないもの(又は行為)を、さも恩着せがましく与え、見返りばかりを期待する、間抜けな輩を揶揄した例えとして使う。