富士山の麓に、不二阿祖山太神宮という場所があり、そこが天御祖神を祀る神社だと参拝する人が後を絶たないようですのでアップしておくこととします。

 

 

 


結論から言いますと、宮下文書に記されている正統な「阿祖山太神宮」は富士王朝の名残りで、北東本宮小室浅間神社・古宮から明見湖のある一帯にあったと思われますので、以下、参考までに記します。

 

「不二阿祖山太神宮」はそれとは別の新興宗教です。

 

◯ 阿祖山太神宮(宮下文書に記されたもの。明確な場所は特定されていない。)

✕ 不二阿祖山太神宮(新興宗教の建立したもの)

 

 

 

 

 

Google mapにある、『不二阿祖山太神宮』は新興宗教で教祖は渡邉聖主さん、安倍元首相の妻・安倍昭恵さんが名誉顧問をしています。

 

祭神は以下の通りです。


主祭神
元主一太御神(元旦神、唯一神、不二太神、元主天御中主太神)
御親元主国万造主・国常立太御神
 

配神
天照主大御神
天祖・皇祖・人祖・八百万神

 

ここは不思議なことに本殿が火災にあっているんですよね。

山宮浅間神社も拝殿を建てようとしたとインタビューで書かれていますが、ここは、富士を御神体とした太古の神社で、元から本殿はないのです。

 

これについては判断は委ねたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、寒川神社の禁足地であった神嶽山神苑ですが、ここは八方除を祈祷した方だけ入苑できる御神域です。

この中にある御祖神社を天御祖神社であるとして参拝する人もいるようです。

 

私も以前、参拝してみましたが、神嶽山神苑は霊域ではありますが天御祖神の神社ではないと思います。 

なぜなら、宮下文書には、「天御祖」も「天祖」も書かれていないからです。

この古文献は阿祖山太神宮のものと思われますが、富士王朝の末期の末期のものでその御名はホツマツタヱに「アメノミヲヤ」、先代旧事本紀大成経に「天祖」としか残っていません。

よって、ここに祀られているのは、全国にある御祖神社と同様に寒川神社を建立した氏神を祀る神社だと思います。

 

これらについて少しまとめます。

 

 

宮下文書を見ると、富士山の延暦大噴火〈西暦800年)によって、阿祖山太神宮と明見湖周辺にある明見村は溶岩流に呑み込まれて壊滅したとされます。 

宮下文書を携えて相模国の高座郡に避難したのですが、その時に寒川神社を造営し、宝蔵に宮下文書が保管されました。

後に、寒川神社も大洪水に遭って原本は消失しています。 

ただ、この大洪水の前に、大噴火も落ち着いた頃、複写本を小室神社の再建時に移管していたために現代に残っています。 

(その後、焚書扱いで幕府に没収されそうになった時、隙を見て一部を持ち出して逃げたりなどもあり、部分的にしか現存していません)

大噴火後の古地図(富士山神宮麓八海略絵図)には、「大元富士山元宮 阿祖山太神社」の右隣に「元宮小室千現神社」と書いてあります。

 

 

 

大明見 北東本宮小室浅間神社の由緒書き(Xの画像参照のこと)には、この神社に聖徳太子も来たと記されています。

ただ、年代的にも大噴火前にあった古宮の方に訪れたと思われます。

これも勘違いしている方がいますが、 現在の大明見 北東本宮小室浅間神社は1600年代に古宮から遷座されたものです。

 

聖徳太子は真実の日本史「先代旧事本紀大成経」を遺すために各豪族の宝物庫を開けさせました。 

豪族たちも、神代文字を各豪族ごとに変形させて保管していたために読めるわけがないと渋々応じたようですが、聖徳太子はスラスラと読めたようです。

宮下家の始祖は、阿祖山太神宮の宮司の長であったと伝わっています。 

宮下文書を編纂したと伝わる、徐福の祠も明見湖の側にあります。 

 

これらの物証からも、北東本宮小室浅間神社・古宮から明見湖一帯に阿祖山太神社があった可能性が高いと思われます。

 

古代に阿祖山太神宮があって、富士王朝の名残りがあったのは確かでその神宮が西暦800年頃まで残っていたのは地図にも記されています。(地図が改竄でなければ)

 

 

宮下文書では、神武天皇が即位に当たってここから宮司を橿原神宮に呼んでいることが記されています。(宮下文書は系図などは滅茶苦茶ですので、どこまで信憑性があるかはわかりません。)

 

ただし、神武天皇の時に、日本は統一政体となり、十種の神宝と三種の神器と別々の皇統に継承されていたものも一つになりましたので、阿祖山太神宮の宮司を呼んだ可能性もあるでしょうね。

 

 

あくまで一見解ですので、興味のある方は、ご自身で調べて、探究されることをお薦めします。