原曲『ウィズ・セイビア』について、どう感じましたかという質問があったので少しやり取りしました。
載せて欲しいとの要望があったので載せておきます。
また、原曲+法談の次のステップとして、原曲+法談+祈り(合唱を含む)が大切です。
原曲の参究を通して、祈りが深まっていることを実感すると思います。
この祈りには合唱を含みます。
復活の祈りは支部や精舎で開催していますので、祈りは当たり前の前提としてあまり綴りませんでしたが少し最後に綴ります。
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【WEBでの法談】
Mさん:今日の原曲研修はウィズ・セイビアでした。
皆さんにお聞きします。
冒頭のウィズ・セイビアだけ、他のウィズ・セイビアとリズム、メロディーが違いますが、なぜだと思いますか、どういう意味があると思われますか?
ナヴァ(ブログ管理人):それは原曲を聴いた直後でないと皆さん答えられないかもね。
Mさん:そうですよね。
今回は残念ながら法談するまでの時間はなかったので。
ナヴァ:『救世主と共に』、という主の強い強い念いが感じられたのを覚えていますけど。
ほかの歌詞は主を求める弟子の心、念い。
その求める心は宇宙にまで連なって、宇宙のメシアたち、そして、ウィズ・エル・カンターレまで高まっていく。
宇宙神。
Mさん:あ〜、だからウィズ・セイビアって語尾が上がっていくんですね。
そこは、リニューアル前の曲は表現出来てなかったですよね。
ナヴァ:そうですね。
そこは一番気付きやすいと思います。
以前の方の歌や編曲は全部そうなんです。
のぺーっとして感情の高揚がないんです。
申し訳ないけど超音波のように。
ウィズ・セイビアは、弟子たちの戦い(勇気)を通して、団結(愛)を通して、エル・カンターレのセイビアを超えた宇宙神的側面が感じられます。
映画「黄金の法」の、『愛と勇気を』ですね。
『カッコいいということは、愛と勇気に生きるということなんだ』、それが最後のサトルのセリフでしょう。
ヤイドロン様はヒーローなのでカッコいいんです。
主は更にカッコいいを超えてるんです。
男も女も戦え(勇気を持て)ということですね。
Mさん:ありがとうございました。
私は今日、ウィズ・セイビアと何回も聞いているうちに、セイビアと言いつつ、セイビアを超えた存在だということを強調しているように感じたんですよね。
でも、救世主という言葉も出てくるので、救うという強い意志も感じられたんです。
これは、法談したかった(╯︵╰,)
ナヴァ:お祈りも求める心、主に届けようという思いが強い時は語尾あがり気味に、天に突き抜けて唱えていますよ。
下に下がっている時、内に籠もっている時は、その部屋の空間にとどまってますので。
必ず宇宙へ、天への解放があって、空間的にも広がっていきます。
導師の声の質、私たちの声の質でもうわかるので。
これは歌にとても通ずるところがあって、だから、私は合唱を勧めていたんです。
原曲と法談と合唱と、そして祈りへと。
私が一貫して伝えていたのはここなので。
祈りはバイブレーションです。
だから原曲を学ぶことで、復活の祈りの質も高まりますよ、とブログにも書いてます。
原曲を参究し続けていると、自然、バイブレーションに敏感になるんです。
ウィズ・セイビアのそれは、私たちの愛と勇気が高まらないと宇宙神は現れませんよ、ということでもあるでしょうね。
救うという強い意志は、フォーキャストです。(「救世の法」参照)
私(主)の意志、私たちの意志。
宇宙神とは慈悲です。
宇宙神とは創造力です。
Mさん:原曲を受ければ受けるほど、込められた意味、メッセージ、思い、深いなあと。
一曲だけでも学び尽くせないですね。
ナヴァ:釈尊の仏教でさえ、多重構造ですからね。
阿羅漢の八正道が、菩薩の六波羅蜜多と重なるように。
原曲はエル・カンターレ(神は詩う)なので、他の原曲と合わせるとほんとに万華鏡になっています。
万華鏡ということは、これは、宇宙がどう創られたかの秘密ということです。
頭だけではなく、それが感覚的にハートで感じられます。
Mさん:宇宙の秘密が開示されていると!
ナヴァ:だから秘儀なんです。
「原曲は宗教的秘儀。霊示であり、御神示である。」と仏言である通りに。
宇宙万華鏡なので。
それだけ覚えておいてくれれば、原曲を参究しているそのうちにハッとすることもあると思いますよ。
Mさん:ZOOMで原曲の法談やったら凄いことになりそう。
それで、ずっと、何時間でもやってそう。
私は口ポカーンとしてるだけでしょうけど。
ナヴァ:楽曲聴くと、最初のウィズ・セイビアも、ナミエルのニュアンスや歌い手のニュアンスで『救世主と共に生きましょうよ』という弟子の呼びかけのようにも聴こえます。
しかし、原曲ですと、最初に『我は在りて在る者』という旧約聖書の炎に感じられるのですよね。
それを述べたのはヤハウェ=ヤイドロンと現代ではされています。
でも、そうではなく、それを超えた存在があなた方のセイビアなのだと。
一行目の、『ウィズ・セイビア 今、生きる人たちへ贈る言葉。』、『ウィズ・セイビア 私たちは何でも可能だ。』は、主の言葉、主の念い、主の意志が込められている。
フォーキャストです。
『今、生きる人たちへ贈る言葉。私たちは何でも可能だ。』
それはウィズ・セイビア、主と共に在る時に私たちには不可能はないということです。
そこから歌は始まるんです。
主がいつもそこにいるということです。
「人格をつくる言葉」にあるように、『仏陀やキリストは、いつもそこにいるのに、あなたに真理の眼が開けていないだけだ。』です。
そのことに、歌うこと、合唱することで気付くんです。
原曲は主そのものですので、歌うことで主と一体化出来るんです。
それが賛美歌。
黙示録に限らず、聖書には「新しい歌を主に歌え」という言葉が多く記述されている。
— 🌿ナヴァ🌿 (@777_ekam) 2024年1月29日
『「新しい歌」は、喜びに満ちあふれた賛美と祈りであり、信仰の告白でもある。そしてそれは聖霊によって日々新たにされる必要がある。』
神の詩は祈り。
聖霊の歌が最初に開示された曲。https://t.co/xQj51gTlL4 pic.twitter.com/KTOeoRbgiE
だから、合唱して涙するのは、申し訳ないという悔悟の涙もありますけど、主に生かされていること、常にそこにいる感謝、ご臨在を感じて涙します。
少なくとも私はそれを感じてます。
Mさん:そうなんですよね、原曲だとセイビアと言いつつ、超えてるんですよ。
今日は最後は歌詞の唱和でした。
やはり、泣けてしまって唱和できなかった。
最初のウィズ・セイビアでもうダメです。
ナヴァ:このあたり法談してみると良いと思いますよ。
まだ詩の法談なので、『音』に気付く人が入ったらもっとでしょうからね。
最初に『ウィズセイビア』の音階で、言い切りで始まる歌は、現代にないと思います。
The Beginning<アルファのテーマ> の原曲なんて、ほんとに在りて在る者、地球は念いにて始まったことを表現し、全部が言い切りで歌とも呼べないものですしね。
アルファのテーマと題して、敢えて「気づきなさい」としてますよ。
以上です。
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自己の反省も込めて。
歌は祈り、祈りは歌。
祈りが宇宙大に広がらず、部屋の中でシューっと萎んで籠もっていることがある。
祈りが、宇宙(そら)に、天に届かず、自分の中で唱えていることはとても多い。
これは悲しいかな自己満足の祈り。
この時、感謝も途切れている。
『歌と祈り』について、2021年にあった質問の私からの返答を貼っておきます。
●祈りと振動
高次なバイブレーションになると声が1トーン上がることが多い。
また、高音な透き通った発声の最後にビブラートがかかることも多い。
その時は末尾の音程を上げる発声法で下げていない。
自然にそうなっている。
上位存在に届けたいと願うとそうなる。
バリトンの様な低音の方もいますけど、その場合もビブラートがかかって振動している。
この振動は感情を揺さぶる音。
歌手でも松任谷由実や宇多田ヒカルなどの声はビブラートがかかっていますし、長く聴かれる歌手はそれを効果的に無意識にも使っている。
気持ちが入るとそうなる。
民謡や演歌、人が泣いた後の声、泣き声もビブラートがかかっているので、人はその震える声を聴くと同情を寄せる。
これは自然の摂理です。
役者も演技がうまいと言われる人はそうした特徴的な振動する声だったりする。
カタルシス(浄化)を喚起させる声。
原曲は主のお気持ちがわかる法門。
その主の気持ちを感じ取ると、人の気持ちもわかるようになる。
そして言葉に『気持ちが入ると』、言霊となる。
その後の祈りでは、明らかに以前とは違う祈りになっている。
もちろん、悲しいかな波はある。
●歌と祈り
歌手のインタビューなどを見ても、歌が届いた、伝わったと思う瞬間があるという人がいる。
まだ数名しか確認出来ていないが、東日本大震災で歌えることに感謝した歌手や、人びと(これもひとりひとりにと言っている)に何らかメッセージを届けたいと愛の思いがある歌手。
つまり、カッコいいだろ、美しいでしょと、自分のために歌っていない。
基本歌手はファンのために歌っているので、意識的にはそうは思ってないはずですが「届いた」と表現する歌手が少ないのは「純粋さ」と「愛」のところだろう。
ヘルメス的かどうかということ。
祈りも同じ。
私も東京ドームの仏法劇『三千大河』の演者のひとりとして最後歌いましたけど、届いたと感じました。
この時、感謝の心に溢れ、自他一体を一瞬垣間見ている。
頭が非常にクリアになって、会場のすべての人が第三の前頭葉で見え、気持ちが流入して来た。
歌が祈りとなっていた。
祈りも同じ様に歌となる。
先生のアトランティス語の霊道現象では、アトランティスの会話そのものがスローな歌の様な発声だった。
フランス語と中国語の元になった言葉、発声だが、その極致はヒーム神でしょう。
●魔法と歌
魔法もそうですけど、外の世界を変えようとアブラカタブラと唱えても変わらない。
それは個人の念力の限界である。
自分の心を通して他に働きかける。
ハワイの伝説的なカフナで、ホ・オポノポノ(SITH)のモナ女史は自らの心を変えることで世界を変えていた。
彼女は、エドガー・ケイシーにも師事し、学んだ方です。
モナ女史が瞑想してゆっくり揺れると受講者もシンクロして揺れた様に、三界は唯心の所現なので自我を除き、心を解放して、自らの心にあるべき姿を映している。
エル・カンターレファイトもヒーリングもそうですけど、修法で結界を作って包み込んでいますけど、最終的には自分の仏性(内なるエル・カンターレ)から相手の仏性に光が働きかけ、内面からヒビを入れて光が差し込んでいる。
ただ、外から光が差しこむイメージはシンクロしていないし、効かない。
これも歌を思えばわかる。
感動する歌は心と心が感じて震え、動き、涙する。
もし、対象となる魔を外から光を当てて倒すのなら、御本尊に向かって十字・五芒星は斬りません。
●祈りと環境
美の女神の一人は、東京正心館で美オーラの導師をした時、リハーサルで左右の通路から先に広がらなかったのを感じた。
点検したところ通路に飾っていた造花で光が屈折していたことに気付き、生花に変えたところ全体にパーッと広がった。
これは偽物が光を曲げること、また、花の持つ力を物語っている。
これは私も経験がある。
花の持つ力は偉大である。
人の言霊も本当に力があり、枯れた花も祈りで復活しますし、怒りをぶつけると猫も泡を吹いて死ぬ。
これは…濁しときますけど。
イレギュラーでしたけど反省。
(心理療法を一度試しに受けた時に、「心の中の怒りをぶつけてください」と言われ、では...と試したところ2階にいたその家の飼い猫がひっくり返りお亡くなりになったことがある。その事例から怒りを出してはダメなんだとわかり、穏やかに穏やかに。)
●歌と共通認識
言語の発生以前には音楽がある。
アワ歌も、イザナギとイザナミの陽と陰に分かれているが、これはDNA構造ともなっている。
ホツマツタエの一番最初は和歌姫の歌である。
日本も世界も歌から始まっている。
アワ歌を全国に広めて初めて言葉が共通化され、人は共通認識し、意思疎通することが出来るようになった。
原曲も、次の第八文明の共通認識、共通言語である。
もし、この原曲が無くなったら、教団は共通認識(主のお気持ち)がわからず、意思の疎通が持てず、分断してしまう。
●主の読誦
先生の正心法語は早いペースなので上記とは少し異なる。
あのリズムとスピードは積極的な意識で発声していて降魔になっている。
実際に先生の正心法語のリズムに合わせて読誦すると3回で大抵の悪霊はベリっと離れる。
エル・カンターレは、宇宙の積極性の意識。
歌は祈り、祈りは歌。
未那識(動物的意識)のメンタルブロックを超えて仏性に直接届く力。
光の共鳴作用、瞬間における転生。
導師はオーケストラの指揮者兼歌い手。
賛美歌、聖歌は英語でhymn、ヒーム神です。
歌う様に祈り、祈る様に歌いましょう。