幸福の科学の支部信者向けです。

 

 

 

2023.11.23 初転法輪。

幸福の科学の地元支部から依頼があって、地元の歴史的意義について話すこととなった。

ドラッカーの言うように、『組織は、なぜ必要なのか。』の背景となるものがここにある。

その後、法談し、色々思うこともあった。

 

 

ローカルではあるものの、日蓮聖人の知られざる誕生秘話でもあり、鎌倉幕府の始まりとイノベーションと関わりを持った地でもあります。

昨年末に、浅草の閻魔大王や鎌倉の閻魔大王、鎌倉と繋がる地元周辺をぐるっと巡ったのも偶然ではなく、インスピレーションとして降りていたことです。

 

ここが忌部開拓の終着地であることは、郷土研究史でも載っていないことなので私が最初で最後になるでしょう。

横浜の中央地域、保土ケ谷、旭、瀬谷の史跡を中心として綴りました。

幸福の科学の信者でなくとも、中には新たな視点として参考になるものもあると思います。

 

 

 

 

 

 

 

ここは、鎌倉幕府の樹立に縁深い地である。

以下、郷土研究資料などを参照した。

 

 

 

①白根不動尊と源氏の始まり

●創建不明(800年代前半?) 白根不動尊(本尊の不動明王像は弘法大師作と伝承)

弘法大師が伊勢原の大山寺3代目住職となっていることから800年代前半にはあったと思われる。(大山寺は、当時は大山の頂上、大山阿夫利神社の場所にあった。神仏分離令後は、山の中腹に移動。)

 

 

②神明社と鎌倉三街道

●970年 神明社 創建。

平安時代中頃(970年)に榛谷の峯に天照大神が現れ、川井、二俣川、下保土ヶ谷を遷座した。

1225年 少女が託宣を受け、三遷座後、神戸に鎮座した。

(愛染明王画 弘法大師作もあったとされるが現在は不明。)

上の道、中の道、下の道と神明社は遷座し、遷座ごとに神社周辺に村が栄え、街道の整備が進んだ。

最後の鎮座以降、保土ケ谷宿が栄え、情報と運搬の要所となっている。

榛谷の峯の影向(さちが丘付近)、川井(上川井神明社裏の丘付近)、二俣川(四季美台の丘付近)、下保土ケ谷(藤塚IC付近。別に霞台の説あり)。

 

※補足として、カッコは郷土研究会の説をそのまま載せています。

他の2つはほぼ重なるとして、川井(上川井神明社裏の丘付近)は国道16号線沿い、帷子川沿いで、上の道は現在の瀬谷柏尾道路であるため離れています。

ただし、川井地域は瀬谷の近くまで広がっている地域です。

970年は平安時代で、この地域は帷子川沿いに養蚕と染織で発展し、家々はその周辺に集中していました。

後に神明社は増え、上の道沿いにも創建年代不明の「瀬谷神明社」が現在もありますので、鎌倉街道が出来る前の道の成立と関係していると思われます。

 

※この史実から見ても、天照は相当に念入りに、様々なところに啓示を降ろしています。

 


 

 

 

③八幡神社と奥州討伐の戦勝祈願

●1056年 八幡神社 創建。源義家が奥州征伐の戦勝祈願をした野営地。

この時、義家は、白根不動尊の不動明王像を持参している。戦勝凱旋後、当地に創建。

後に、源頼朝も奥州討伐の時に八幡神社で戦勝祈願をしてから向かっている。

帷子川沿いは養蚕と染織の地。

保土ケ谷一帯は、源頼朝の狩り場(当時は戦の修練)。

 

 

④二俣川合戦

●1205年 鶴ヶ峰 北条義時(数万騎)VS畠山重忠(134騎)。

幕府の使者から「謀反人の討伐があるから参集されたし」との報せを受け、鶴ヶ峰で激突、騙し討ちだった。

指示は北条義時と姉・政子の父・北条時政。

武蔵国の支配権を巡っての争い。(畠山重忠は武蔵武士団の首領でもある)

義時は討伐に反対していた。

この一ヶ月後、北条時政による北条政子の実子・源実朝更迭のクーデター計画が発覚し、北条時政は追放される。

源頼朝没後、鎌倉幕府は内乱が頻発した。

 

▶畠山重忠は、戦前の修身書(道徳を説く教科書)で「坂東武者の鑑」として国民の手本とされた。
ひよどり越えの逆落としの時に、愛馬三日月を傷つけまいと背追って崖を降った故事は有名。

▶北条政子は、源頼朝を支えながら熾烈な決断で政権を護持した。

当時は政権運営の仕組み、役職、更に教育(中でも共通に信心する対象が希薄)で国家としての意識のない豪族と烏合の衆の集団であった。

北条政子は一切経を輸入し、鶴岡八幡宮に収蔵している。(後に明治の神仏分離令の時に焼却処分が言い渡された。尼が布施を募り買い取り、いまは浅草寺の宝蔵門2階に収蔵されている。)

 

 

鎌倉幕府は、『元寇』を見据えての天の計画、中央集権体制であったと思われる。ここは、幕府の生命線であり、始まりとイノベーションに力を与えた地。

 

 

 

 

 

余話1 日蓮聖人と母・梅菊

二俣川合戦の一報を聞き、埼玉県嵐山の菅谷城(畠山の所領)から駆け付けた菊の前は鶴ヶ峰で夫の訃報を知り自刃した。

この時、菊の前の子どもたちは、埼玉から千葉に落ち延びたのではないかという説がある。

菊の前の娘・菊姫が日蓮聖人の母、梅菊ではないかという考察。(調べた限り信憑性が高い。)

 

鎌倉幕府はそのままの北条家の形で国難には立ち向かえず、さらなるイノベーションが必要となっていた。

そのためには体制内から生まれるのではなく、敗将の血統から生まれ、革命を起こし、また予言を残す必要があったと思われる。

その分岐点が二俣川合戦。

    

 

※『宗祖の母・梅菊「畠山重忠有縁説」の一考察』参照

 

 

 

 

 

保土ケ谷区の大蓮寺は、日蓮聖人開山前に宿泊した民家。浄土宗から後に改宗、法華堂を建立した。日蓮21才(蓮長法師と名乗っていた頃)。

 

 

 

 

余話2 忌部の開拓

阿波忌部の祖・天日鷲神(善川三郎名誉顧問先生)の子孫、天富命は富山誠氏。

四国阿波から房総に船で渡って開拓した。日蓮とも関係ある。

(上記は、「聖地四国高越山御祭神の霊言」より)※高越山御祭神=天日鷲神

 

天富命は、千葉館山に渡船。安房神社の神官が代々の子孫とされる。

 

●674年 都筑区茅ヶ崎に鎮座する杉山神社の社記には、安房神社の忌部勝麿勝麻呂が神託(674年)により、鶴見川流域に杉山神社を造営したとある。

杉山神社の分布が鶴見川・帷子川・大岡川の三水系、及び多摩川の右岸(川崎寄り)に限られていることから、鶴見川から帷子川、大岡川へと開拓されたことはほぼ確かである。

忌部は、麻、絹の養蚕、染織、鉄鋼技術、鏡、神社の造営技術の一切。天皇即位の麁服献上は現在も忌部のみ。

白根不動尊は、昔は池に囲まれ、「龍が帷子川から海に出て大岡川と往来していた」という伝承があり、忌部氏の舟の往来が読み取れる。

もしくは、昔は霊的にも往来があったのかもしれない。

 

●737年 善無畏三蔵が大岡川沿いに弘明寺を創建し、814年 弘法大師が庶民の除災招福を祈願した。

本尊は善無畏作の十一面観音像。

奇しくも、畠山重忠の里・嵐山には等身大180.1cmの十一面観音像があり、重忠は化身とされている。

歴史はぐるっと輪になった神々の物語。

 

 

 

以上が配布した資料になります。

 

 

 

 

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●法談まとめ

 

●法談とその後の会話

 

→「なぜ、我が支部は存在するのか② ~「存在意義の見つけ方」と「布施論」~」に移動しました。

 

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上記では語らなかったことを少しだけ追記します。

 

 

余話3 郷土研究は自分自身の魂のルーツ研究

 

忌部開拓は鶴見川、帷子川の次は大岡川です。

 

私を例に少し。

 

私自身は、鶴見川、帷子川の後は、京急沿線に住み、大岡川沿いの支部に所属していました。

そして、2009年の立党の時に、神奈川11区(横須賀・三浦)の参謀に入りましたが、横須賀・三浦は父が海洋機器のエンジニアだったため、休日によく連れて行ってもらった地です。(ほか、幼少期の毎年夏休みの2大行事は箱根と九十九里浜でした)

また、元三浦市長からは、まずは市会議員から始めてみないかと打診されたりもしました。

この方は、最初は共産党、次は自民党で市長になった異色の方で、最後に幸福実現党を応援してくれましたが、投票依頼で関係者の挨拶周りに同行させていただいた時、両党と挨拶出来たのは貴重な経験でした。

 

この時、ここに住んでいたため横須賀にも入れましたし、「法戦の時は来たれり」を先生が横須賀で説かれた日、たまたま、戦艦三笠の東郷平八郎が立った甲板に、先生と入れ違いで立っていたこともありました。

その日、走水神社の弟橘姫にも挨拶に行き、境内の猫を撫でていました。

 

前日には河童の夢を見たのですが、走水神社には水神社があり、河童伝説がありました。

神社参拝の時は、よく夢を見ます。

例えば、三峯神社に参拝の時は母である大白狼と子ども2匹が挨拶に出て来て、やんちゃな子狼の方を修行で連れて行ってくれと頼まれる夢など見ています。

(この母狼は真空の円盤のようなものを超音波で出して大蛇を真っ二つにしていました。)

この三浦の葉山にも、一つだけ忌部由来と思われる杉山神社があります。

ここが神奈川西端の杉山神社です。

 

忌部氏は、四国の阿波→紀伊半島の和歌山→伊豆の神津島→三浦半島の城ヶ島→房総半島の館山に渡航した形跡を残しています。

忌部氏は、阿波忌部だけでなく、紀伊忌部、出雲忌部など、第二陣、第三陣と渡航し、合流していると思われます。

 

これは海路での、富士と鳴門を繋ぐ神仕組みです。

 

 

館山には、「あわ」を冠した安房神社があります。

そばには洲崎神社がありますが、対岸の横須賀の安房口神社と共に霊石があり、「あ・うん」でセットになっていると伝承されています。

東京湾をぐるっと囲む形で忌部は開拓しているのです。

多摩川より東にないのは、当時の東国には有力な豪族がいたためのようです。

房総半島から海沿いに、茨城には大杉神社が沢山あり、これも忌部氏と思われます。

 

 

こう綴っていると、横浜中央地域が特別な地のように思われるかもしれませんが、住んでいる方でこの地をここまで特別と思う方は99.9%いません。

信者さんでも同じことでした。

ゴッホのアルルの跳ね橋のように、その風景をどのように見るかということであり、地縁は自身のルーツにおいても軽視出来ないことは自己認識を変容する上でも大切なことです。

縁起は眩ませないのです。

 

 

※当時、橿原神宮内の祭祀は中臣と忌部といましたが、後に中臣の方が官位が上で権勢を伸ばしています。

天富命は神武天皇の命を受けて、房州開拓に乗り出したことになっていますが、要は左遷だと私は思います。

しかし、その歴史の意味は大きかったということです。

杉山神社、大杉神社としたのは、時代が下って、忌部が大和政権からの弾圧を危惧したためでないかと推測しています。

また、杉山の杉と山は、以下のことを冠したのだと思います。

 

エゼキエル書 17 22-23 『神である主はこう語ります。「わたし自身が、一番高いレバノン杉の木のこずえから、一番柔らかい若枝を摘み取り、イスラエルの一番高い山の頂に植える。』
https://www.bible.com/ja/bible/83/EZK.17.JCB

 

杉山神社はかなりローカルですので、エゼキエル書と繋げて意味を見出したのは私くらいだと思います。


 

歴史研究では、「どうして当時の人びとはそのような選択、行動をしたのか」というものがあります。

この議論はわかってないなといつも思うのですが、昔は祭政一致が当たり前でしたので神託で動いているのです。

この世的な心を取り除かなければ神託は降りず、行動も出来ません。

後世の私たちは、長いスパンを俯瞰して見ることが出来るため、そこに理由、意味を後付けで見出しているに過ぎません。

当時の人びとは、100%その理由をわかって行動はしていないということです。

それは、現代の私たちにも言えることなのです。

 

 

 

⑤鎌倉から富士山へ

 

忌部の開拓は大岡川までで、善無畏三蔵がインドから日本に渡来した時に、大岡川沿いで霊域を感得し、陀羅尼(だらに)を書写し、七ツの霊石を置いて結界を立てました。

それが弘明寺です。

この善無畏三蔵も善川三郎顧問先生の過去世です。

後に、行基、弘法大師も訪れて仏像を安置しています。

 

では、最初渡航で立ち寄った三浦半島や鎌倉から先の箱根、富士山まではどのような霊脈が続くのでしょうか。

 

まず一つは、横浜の中央地域は忌部開拓の終着地で、日蓮聖人の祖父母が帰天し、忌部開拓の中間地の房総で日蓮聖人は生まれています。

日蓮は、鎌倉の地で元寇の予言を獅子吼し、弟子の日興は母の郷里である富士の裾野でそれを布教しました。

(ここには三万年前のまだ隠されたもう1基のUFOがあるとされています。

日蓮宗では、天母山の国立戒壇が遺稿とされていますがそれと関連しているでしょう。

最初の啓示である「イイシラセ」を日興上人が遣わされたことはそのためと思います。)

日朗は鎌倉の安国論寺を拠点とし、ここで荼毘に臥されました。

日朗は善川三郎顧問先生の過去世ですが、祖父は千葉の印東次郎左衛門で元の姓は畠山次郎左衛門です。

鎌倉幕府は箱根、伊豆の数々の神社を再建・造営し、元寇という使命を果たして滅びました。

 

総精算と感じますので綴っておくと、自分がそこにいたとは思いませんが、私自身も日蓮宗とご縁があります。

過去世六老僧と言われた方が心願成就の秘法をした時に本をドサッと渡されたのが見えたというタイミングでご縁が繋がり、一晩徹夜で100ページの資料を書き、渡したこともあります。

善川顧問の秘書をされていた方ですが、色々、ご苦労があったことと思います。

私が帰依する以前の草創期のことを色々教えていただき感謝しています。

また、日蓮宗・法主の甥の起業コンサルタントをしたり、名付けられた某俳優との交流など縁が繋がっているようです。

最終的に母の帰天で知ったのですが本家は日蓮宗でした。

 

 

もう一つは、忌部氏は秦氏と同根であるという説があります。(以下、ブログ参照。内容の判断は各々に委ねます。)

そして、秦野市は秦氏が開拓したという説があります。

ここは、富士の明見湖(蓮池)で徐福が晩年を過ごし、その子孫が藤沢の方まで開拓したという説もあります。

これを一つの揺らぎとして、今回は終わりにしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

そこにあなたがいること、ここに私がいること。

 

すべてには意味があります。

 

皆さん一人ひとりが、魂を完全燃焼させて灰の中から不死鳥の如く蘇ることを祈ります。

 

 

 

 

 

 

以上です。

 

 

 

 

 

 

追伸1

 

2023年は全国を巡り、勧進と方々に進言をしていましたが、それが終わるまで癌の進行が止まり、痛みもなかったことは主のご加護だったと思います。

 

 

 

富士と鳴門を繋いでいたようです。

こうやって神託は、後からわかることも多いわけです。

祈願もその意味が後からわかるように、原曲もその意味が後からわかるようになります。

 

 

 

徳島の川島町に川中島がありますが、その住民は大正時代に北海道に強制退去させられました。
そして、浮島八幡宮(忌部神社)は爆破されました。
四国・阿波には隠された歴史があります。

 

 

 

ユダヤ教の原点、イスラエルに還っているようです。